遺産を受け取らない『相続分の譲渡』
「もう、この話し合いには関わりたくない」
次女の原田麻衣(四十四歳)はため息をついた。母・原田千代が他界して四ヶ月。遺産分割協議は一向に進まない。
長女の由香(四十七歳)と長男の健一(五十歳)が、実家の土地の評価額をめぐって激しく対立しているのだ。由香は「今すぐ売って三等分にしたい」と言い、健一は「自分が住み続けるから等価で引き取る」と主張する。二人の言い分は平行線をたどり、毎回の話し合いが怒鳴り合いになっていた。
麻衣は中立の立場だったが、電話のたびにどちらかの愚痴を聞かされ、精神的に疲弊していた。「私は遺産なんていらない。こんな争いから抜け出したい」
「相続放棄」の期限はとうに過ぎていた
司法書士の中山先生に相談すると、麻衣の最初の希望——「相続放棄」——はすでに難しいと告げられた。
「相続放棄は家庭裁判所への申述が必要で、相続開始を知った日から三ヶ月以内に行わなければなりません。今はすでに四ヶ月が経過していますから、原則として相続放棄はできません」
「では、もう諦めるしかないんですか」と麻衣は肩を落とした。
「いいえ。別の方法があります。『相続分の譲渡』です」と中山先生は言った。
「相続分の譲渡」という出口
相続分の譲渡とは、遺産分割前に、自分の相続分(権利の割合)を他の相続人や第三者に譲り渡すことだ(民法九〇五条)。
「由香さんに私の相続分を渡せばいいんですか」
「そうです。麻衣さんが由香さんに相続分を譲渡すれば、麻衣さんは以後の遺産分割協議に参加する必要がなくなります。裁判所の手続きも不要で、お二人の合意書と実印・印鑑証明書があれば成立します」
「タダで渡してもいいんですか」
「無償でも有償でも、どちらでも構いません。ただし有償の場合は税務上の確認が必要です。今回は姉妹間の無償譲渡を考えてみましょう」
「債務」だけは残る点に注意
「一つ確認しておきたいことがあります」と中山先生は続けた。「相続分の譲渡は、相続放棄とは違います。相続放棄は被相続人の借金も含めて一切を引き継がないことになりますが、相続分の譲渡はプラスの財産への権利を手放すだけです。お母様に借金があった場合、債務については依然として麻衣さんが責任を負う可能性があります」
「母は借金はなかったはずです」と麻衣は答えた。「預金と実家だけです」
「なら問題ありません。確認のため、信用情報と金融機関の残債を一通り調べておきましょう」
調査の結果、千代に負債はなかった。麻衣は安心して手続きを進めることができた。
「相続分なきことの証明書」で完結
由香との合意書を作成し、それぞれが実印を押して印鑑証明書を添付した。さらに中山先生が「相続分なきことの証明書」を作成した。これにより、今後の不動産登記などの手続きで麻衣の参加が不要になることが証明される。
書類が完成した日、麻衣は由香に電話した。「あとはお姉ちゃんに任せる。健一とうまくやってね」
由香は少し驚いてから言った。「ありがとう。私がちゃんと決着をつける」
「協議の泥沼から離れる」というのは、時に最も賢い選択だ。相続放棄の期限を過ぎていても、相続分の譲渡という道がある。自分を守るための選択肢を知っておくことが、相続の場での静かな強さになる。
[学びのボックス]相続分の譲渡のポイント
| 相続分の譲渡とは | 相続人が遺産分割前に、自分の相続分(権利の割合)を他の相続人または第三者に譲り渡すこと(民法905条)。裁判所の許可は不要で、当事者間の合意で成立する。 |
| 相続放棄との違い | 相続放棄は家庭裁判所への申述が必要で、相続開始を知った日から3ヶ月以内に行う必要がある。相続分の譲渡は期限の制限がなく、裁判所を経由せず、費用も比較的低い。 |
| 譲渡の効果 | 相続分を譲渡した人は遺産分割協議に参加する必要がなくなる。ただし、相続放棄と異なり被相続人の債務(借金)は引き続き負担する可能性がある点に注意が必要。 |
| 有償・無償どちらも可 | 相続分は対価(現金)を受け取って有償で譲渡することも、無償で譲ることもできる。有償の場合は譲渡所得税の問題が生じることがあるため、税理士への確認が必要。 |
| 「相続分なきことの証明書」の活用 | 相続分を譲渡した後、その事実を登記手続き等に証明するために「相続分なきことの証明書」(実印・印鑑証明書付き)を作成する。これにより協議への参加が不要になる。 |
