愛犬に遺したいもの――身寄りのない老紳士と「ペット信託」
田中義雄(たなかよしお)は、七十八歳の元小学校教師だ。妻には十二年前に先立たれ、子どもはいない。兄弟も遠い昔に亡くなった。今の義雄にとって、毎朝隣で目を覚ます存在はただひとつ――愛犬のコロだけだった。
コロはトイプードルの雄で、七歳になる。義雄が散歩に出れば必ずついてくる。食事の時間には足元で待ち、夜になると布団の端でまるくなって眠る。言葉は通じなくても、コロの存在が義雄の孤独をやわらげてくれていた。
そんなある日、義雄は近所のかかりつけ医で血圧の高さを指摘され、「一度、ご自分の将来のことをちゃんと考えておいたほうがいいですよ」と言われた。帰り道、義雄はずっとコロのリードを握りしめていた。
(もし自分が先に逝ったら、コロはどうなるんだろう……)
家に戻って義雄がまず調べたのは「ペットに財産を遺す方法」だった。ところがすぐに壁にぶつかった。日本の民法では、財産を受け取れるのは人間(法人を含む)だけだ。コロに直接お金を遺すことは、法律上できない。
途方に暮れた義雄は、市の無料法律相談に申し込んだ。担当した司法書士の女性、佐々木さんは穏やかな口調でこう教えてくれた。
「田中さん、コロちゃんに直接は遺せませんが、コロの世話をしてくれる人に遺す方法なら二つあります。一つは『負担付遺贈(ふたんつきいぞう)』、もう一つは『ペット信託』です」
負担付遺贈とは、「財産をあげる代わりに、特定の義務(負担)を果たしてもらう」という遺贈のかたちだ。義雄が信頼できる友人や知人を受遺者(ずいしゃ)に指定し、「コロが天寿を全うするまで世話をすること」を条件に、一定の金額を遺贈する。公正証書遺言に書き残せば効力をもつ。
「でも、相手が途中でやめてしまったら?」と義雄が問うと、佐々木さんは「そこが負担付遺贈の弱点です」と答えた。受遺者が義務を守らなくても、強制的に取り戻す手段は限られている。
「そこで出てくるのがペット信託です」と佐々木さんは続けた。
ペット信託とは、生前に信託契約を結び、あらかじめ金銭を信託財産として第三者(受託者)に預けておく仕組みだ。義雄が委託者となり、受託者(信頼できる個人や信託会社)がコロの世話費用を管理する。コロの世話をする世話人(受益者)には、定期的に費用が支払われる。
「信託の場合、お金はコロのためにしか使えない形で管理されます。世話人が義務を果たさなければ、受託者が別の世話人に切り替えることもできます」
義雄はメモを取りながら、少しずつ表情がほぐれていくのを感じた。
「コロがいる間だけ使えるお金を、ちゃんと準備できるんですね」
「そうです。残った財産をどこに寄付するかも、あらかじめ決めておけます」
義雄にはかつての教え子で、今も年賀状のやりとりが続く女性がいた。犬好きで、コロにも会ったことがある。彼女に頼めるかもしれない。義雄は久しぶりに電話をかけてみようと思った。
一週間後、義雄は佐々木さんの事務所を再び訪れた。「昔の教え子が引き受けてくれると言ってくれました」。声が少し震えていた。
コロが天寿を全うするまでのおよその費用を計算し、少し余裕をもたせた金額を信託財産とする。残りは動物愛護団体へ寄付する――そんな計画が少しずつかたちになっていった。
帰り道、コロはいつものようにトコトコと義雄の横を歩いた。義雄は空を見上げ、ひとりつぶやいた。
「コロ、ちゃんと準備してやるからな」
コロはちらりと振り返り、また前を向いて歩いた。その小さな背中が、義雄にはとても頼もしく見えた。
学びのボックス:ペットのための相続対策
| 大原則 | 日本の法律では、ペットに直接財産を遺すことはできない(民法上、動物は「物」として扱われる)。 |
| 負担付遺贈 | 「世話をすること」を条件に財産を遺贈する方法。遺言書に明記する。受遺者が義務を怠っても強制力が限られる点が弱点。 |
| ペット信託 | 生前に信託契約を結び、ペットの世話費用を受託者が管理・支払う仕組み。管理の透明性が高く、世話人の交代にも対応できる。 |
| 準備のポイント | ①信頼できる世話人を見つける ②ペットの寿命と生涯費用を試算する ③司法書士・弁護士・信託会社に相談する |
