会社と個人の財布:社長の相続の落とし穴
「株価がこんなに高いはずがない。うちは上場なんてしていない、ただの小さな工場ですよ」
父・木下賢治(享年六十八歳)が急性心不全で倒れてから三ヶ月。長男の木下浩介(四十一歳)は、税理士から渡された相続税の試算書を見て声を失った。
木下製作所は埼玉県内の金属加工工場。従業員十五名、年商三億円。父が一代で築いた会社だ。株式はすべて父の名義。「非上場だから株価なんてないだろう」と思っていた浩介の認識は、税理士に真っ向から否定された。
「売れない株」にも税金がかかる
「非上場の株式には取引市場がありませんが、相続税の計算では独自の評価方法で価値を算定します」と税理士の前田先生は説明した。
「主に使われるのは『純資産価額方式』です。会社が持っている資産(工場の機械・在庫・現金・不動産など)の合計から負債を引いた純資産を、発行済み株式数で割って一株の価値を求めます」
「それで今回はいくらになりますか」
「木下製作所の純資産は約四億円と試算されます。父上が保有していた株式の評価額は、その大部分になります。相続財産全体では五億円を超え、相続税は約一億二千万円になる見込みです」
浩介は頭を抱えた。会社の運転資金を除くと、手元にそれだけの現金はない。
会社と個人の財産が「混在」していた
「さらに整理が必要な点があります」と前田先生は続けた。「工場の敷地は社長個人(賢治さん)の名義になっています。会社は個人から土地を借りているかたちですが、権利関係の書類がほとんど残っていない」
「それが問題になりますか」
「評価が不明確になります。個人名義の土地は相続財産として別途評価されます。また、役員貸付金として賢治さんが会社に貸していたお金の扱いも整理が必要です。社長の個人財布と会社の財布が混在していると、どちらの財産か曖昧になりがちです」
浩介は父の通帳を改めて確認した。確かに、会社への貸付が数千万円記録されていた。
事業承継税制という「救済措置」
「一億二千万円をどうやって払うんですか」と浩介は問いた。
「事業承継税制の特例措置を活用できる可能性があります」と前田先生は言った。「中小企業の後継者が株式を相続する際、一定の要件を満たせば相続税の納税を猶予——場合によっては免除——できる制度です」
「どんな条件があるんですか」
「主なものは三つです。都道府県知事への特例承継計画の提出、後継者が代表者に就任すること、そして雇用の八割を五年間維持すること。ただし計画の提出期限が二〇二七年三月末と定められているため、早急に動く必要があります」
「もし父が生前にこの制度を知っていれば、もっとスムーズだったのに……」
承継は「急いで動く」から始まる
浩介は前田先生と連携して特例承継計画の作成に入った。代表就任の登記、雇用維持の誓約書、都道府県への申請——重なる手続きの中で、従業員たちも「浩介さんについていきます」と声をかけてくれた。
約半年後、特例措置の適用が認められ、浩介は相続税の大半について納税猶予を受けることができた。
「父が残してくれた会社を守れた」と浩介は思った。「でも、もっと早くに父と一緒に準備していれば、こんなに追い詰められなかった」
同族会社の株式相続は、知識がないまま迎えると想定外の課税に苦しむ。事業承継税制は時限措置であり、早期の計画立案と専門家への相談が、会社と家族を守る唯一の道だ。
学びのボックス:同族会社の相続税と事業承継税制のポイント
| 取引相場のない株式の評価 | 同族会社(非上場)の株式には市場価格がない。相続税の計算では「類似業種比準価額」や「純資産価額」などの方式で評価する。会社に純資産が多いほど株価が高くなりやすい。 |
| 会社の財産が株式評価に影響する | 会社が保有する現金・不動産・設備などの純資産は、株価計算の基礎になる。社長個人と会社の財産が混在していると、評価が不明確になり過大評価のリスクがある。 |
| 事業承継税制(特例措置)とは | 後継者が中小企業の株式を相続・贈与で取得する際、一定の要件を満たせば納税を猶予・免除できる制度(租税特別措置法70条の7の5等)。2027年3月末までに事前計画の提出が必要。 |
| 特例措置の主な要件 | ①特例承継計画を都道府県知事に提出、②後継者が代表者に就任、③雇用の8割以上を5年間維持(緩和措置あり)——これらを満たすことで最大100%の納税猶予が受けられる。 |
| 法人と個人の財産分離が重要 | 社長個人の財産と会社の財産を明確に分けておくことが、相続時の評価を適正に保つための基本。役員報酬・貸付金・個人名義資産の整理は生前から専門家と行うことが重要。 |
