『デジタル遺品』のクラウド写真と口座
エンディングノートのID・パスワードが、思い出と財産を次の世代へ橋渡しする
橋本奈々子は、母の遺品整理をしながら、これまで経験したことのない種類の困惑に直面していた。実家の家財道具や着物、通帳や印鑑といった目に見える遺品はひととおり片付いた。しかし母がスマートフォンで撮り続けていた家族写真や、趣味で十年以上続けていたブログ、ネット証券の口座は、パスワードが分からないまま、手つかずで残されていた。晩年の母は、旅行に出かけるたびに写真を撮り、それをブログに丁寧に綴るのが何よりの楽しみだったようだ。
母のスマートフォンの画面には、ロックがかかっていた。奈々子が思いつく限りの誕生日や記念日を入力してみたが、どれも一致しない。クラウドサービスに保存されていたはずの、何千枚もの家族写真にも、ブログの管理画面にも、たどり着く手立てがなかった。「お母さんが大事に残してくれていたものなのに、このまま二度と見られなくなってしまうかもしれない」。奈々子は焦りと悲しみが入り混じった気持ちで、途方に暮れていた。
相続の相談で訪れた司法書士に、この悩みを打ち明けてみた。「最近では、こうした『デジタル遺品』をめぐるトラブルが本当に増えています。ネット証券の口座や暗号資産のように金銭的な価値があるものはもちろんですが、クラウド上の写真やブログのような、思い出としての価値を持つデータも、遺族にとってはかけがえのない相続財産と言えます」。司法書士はそう教えてくれた。
「スマートフォンやパソコンのロックを解除できず、クラウドサービスの運営会社に開示を求めても、本人以外への情報提供には応じてもらえないことがほとんどです。せっかく本人が残したかったものが、技術的な壁によって永遠に失われてしまうケースも少なくありません」。奈々子は、母が生前、そうした準備を何もしていなかったことを、今さらながら悔やんだ。ネット証券の口座についても、取引残高や証券会社の名前すら分からず、このままでは相続財産として計上することすらできない状態だった。
司法書士は最後に、「デジタル終活」という考え方を教えてくれた。「エンディングノートに、利用しているサービスの一覧と、ID・パスワードを書き残しておくだけで、遺族の負担は大きく変わります。特に、思い出の写真やブログのように、お金には換算できない価値を持つデータこそ、生前に一言書き残しておくことが、遺された家族への何よりの贈り物になります」。
この経験をきっかけに、奈々子は自分自身のためにエンディングノートを準備することにした。利用しているクラウドサービスやSNS、ネット銀行の一覧を書き出し、パスワードは信頼できる形で家族に伝わるよう工夫した。まだ小学生の娘には少し早いかもしれないと思いつつも、いつか自分がこの世を去るときには、同じ思いをさせたくないという一心で、丁寧に書き記していった。母の思い出は、結局スマートフォンの製造元に相談し、専門的な手続きを経て、時間をかけて一部だけを取り戻すことができた。写真フォルダを開いた瞬間、若い頃の母の笑顔が画面いっぱいに広がり、奈々子は思わず涙をこぼした。
デジタルの世界に残された記憶や財産も、次の世代へときちんと橋渡しできるように。奈々子は、母が遺してくれたこの教訓を、これからの自分の暮らしの中で大切にしていきたいと思っている。取り戻せた写真の中に、幼い頃の奈々子と母が笑い合う一枚を見つけたとき、失われかけていた時間がようやく手元に戻ってきたような、温かい気持ちに包まれた。
学びのボックス
| デジタル遺品とは | ネット証券・暗号資産などの金銭的価値のあるデータに加え、クラウド上の写真やブログなど思い出としての価値を持つデータも含む相続財産。 |
| ロック解除の難しさ | スマートフォンやパソコンのロックを遺族が解除できず、サービス運営会社も本人以外への情報提供に応じないことが多い。 |
| デジタル終活とは | 生前に、利用しているサービスの一覧やID・パスワードをエンディングノートに書き残しておく取り組み。 |
| 書き残す情報の範囲 | ネット銀行や証券口座だけでなく、クラウドサービスやSNS、ブログなど、金銭に換算できない思い出のデータも書き残しておく対象になる。 |
| 遺族側の対応策 | パスワードが分からない場合、機器の製造元やサービス提供会社に相談することで、一部のデータを取り戻せることもある。 |
