『配偶者短期居住権』で当面の生活を守る
遺産分割協議が整うまで、最低6か月間は無償で住み続けられる法律の保護
森田千鶴子は、夫の正一を病気で亡くしたばかりだった。結婚以来四十年近く暮らしてきた自宅は、正一名義のままだった。葬儀を終えて間もないある日、正一の弟である義弟から、思いがけない電話がかかってきた。「兄さんの遺産は、私にも相続する権利があるはずだ。家も遺産分割の対象なんだから、早く話し合いを始めよう。場合によっては、家を売って現金にすることも考えてもらわないと困る」。夫を亡くしたばかりの千鶴子には、あまりに突然で、あまりに冷たい電話に感じられた。
千鶴子は正一との間に子供がおらず、法定相続人は千鶴子と、正一の兄弟姉妹だった。義弟の口ぶりからは、「話し合いがまとまるまでの間、家から出ていけ」とまで言われかねない緊張感が漂っていた。長年住み慣れた家を、夫を亡くした直後に追われるかもしれないという不安に、千鶴子は押しつぶされそうになった。
途方に暮れた千鶴子は、近所の司法書士に相談することにした。「ご安心ください。奥様には『配偶者短期居住権』という権利があります。これは、被相続人が亡くなった時点でその建物に無償で住んでいた配偶者が、遺産分割協議が終わるまでの間、引き続き無償でその建物に住み続けられる権利です」。司法書士はそう説明してくれた。
「しかも、この権利には最低保障の期間があります。遺産分割協議が早期にまとまった場合でも、相続開始から最低六か月間は、配偶者短期居住権に基づいて住み続けることが保障されています。義弟様が今すぐ退去を求めてきたとしても、法律上、応じる必要はありません」。千鶴子はこの説明を聞いて、初めて肩の力が抜けるのを感じた。
司法書士はさらに、「配偶者短期居住権は、特別な手続きをしなくても、要件を満たせば当然に発生する権利です。遺言や遺産分割協議で家の所有者が誰に決まったとしても、その決定がなされるまでの間は、奥様の居住が法的に守られます」と付け加えた。加えて、たとえ家の所有者が義弟様など他の相続人に決まった場合でも、決定の時から六か月間は、無償での居住が保障される仕組みになっているとのことだった。千鶴子は、この権利の存在を知らずにいたら、義弟の勢いに押されて、なし崩し的に家を出て行かざるを得なかったかもしれないと思うと、背筋が寒くなった。
千鶴子は司法書士のサポートを受けながら、義弟に対して配偶者短期居住権の内容を説明する書面を送った。感情的な対立を避けるため、法律上の権利を淡々と伝える形にとどめ、今後の遺産分割協議には誠実に応じる姿勢も示した。義弟は当初強気な態度を崩さなかったが、法的な裏付けを示されると、それ以上の無理な要求はしてこなくなった。
その後、千鶴子は落ち着いて遺産分割協議に臨むことができ、最終的には自宅を千鶴子が相続し、義弟には預貯金の一部を相続させる形で合意が成立した。合意が成立するまでには相続開始から八か月ほどかかったが、その間ずっと、千鶴子は配偶者短期居住権に守られながら、慣れ親しんだ自宅で穏やかに過ごすことができた。もし配偶者短期居住権を知らないまま急いで家を明け渡していたら、その後の交渉でも不利な立場に追い込まれていたかもしれない。千鶴子は、法律が用意してくれていたこの温かい保護に、心から救われたと感じている。今では庭の手入れをしながら、正一との思い出が詰まったこの家で、一人の暮らしに少しずつ慣れてきたところだ。
学びのボックス
| 配偶者短期居住権とは | 被相続人が亡くなった時点でその建物に無償で住んでいた配偶者が、遺産分割協議が終わるまでの間、引き続き無償で住み続けられる権利。 |
| 最低保障期間 | 遺産分割協議が早期にまとまった場合でも、相続開始から最低6か月間は居住が保障される。 |
| 手続き不要で当然に発生 | 特別な手続きをしなくても、要件を満たせば当然に発生する権利で、遺言や協議の内容にかかわらず一定期間の居住が守られる。 |
| 所有者が決まった後の扱い | 家の所有者が他の相続人に決まった場合でも、その決定の時から6か月間は無償での居住が保障される。 |
| 突然の退去要求への対応 | 他の相続人から早期の退去を求められても、配偶者短期居住権を根拠に応じる必要はなく、法律上の権利として主張できる。 |
