[相続のお話]配偶者控除1億6000万円の『申告忘れ』

配偶者控除1億6000万円の『申告忘れ』


「お母さんの相続分は1億6000万円までなら税金がかからないんでしょう?だったら、税務署に申告する必要なんてないじゃない」

父・田村正一が亡くなってから8か月が過ぎた頃、長男の田村健太は、妹の由美とそんな会話を交わしていた。正一の遺産は自宅の土地建物と預貯金を合わせて約9,000万円。遺産分割協議では、母・幸子がそのほぼ全部を相続することで話がまとまっていた。

「配偶者の税額軽減」という制度があることは、健太もインターネットで調べて知っていた。配偶者が取得した財産については、1億6000万円か、配偶者の法定相続分相当額のいずれか多い金額まで相続税がかからない。母の取得分は9,000万円ほどだから、当然この非課税枠に収まる。「税金がかからないなら、面倒な申告書なんて出さなくていいはずだ」——健太はそう思い込み、申告のことはすっかり後回しにしていた。

母の幸子自身も、夫を亡くした悲しみの中で、相続税の申告という言葉にはどこか他人事のような感覚を抱いていた。「うちは大きな会社を経営していたわけでもないし、税金なんて縁のない話」。そう思っていたのは健太だけではなかったのだ。

転機が訪れたのは、父の四十九日で顔を合わせた叔父の紹介で、相続に詳しい税理士に相談した時だった。世間話のつもりで「うちは母がほとんど相続するので、税金はかからないと思うんです」と切り出した健太に、税理士は少し表情を曇らせた。

「配偶者の税額軽減は、自動的に適用されるものではありません。この特例を使うには、相続税の申告書を、申告期限までにきちんと提出することが要件になっているんです」

健太は耳を疑った。「税金が発生しないのに、申告だけはしなければいけないということですか」

「そのとおりです。しかも申告期限は、相続開始を知った日の翌日から10か月以内。お父様が亡くなられたのが1月10日ですから、期限は11月10日。あと2か月を切っていますよ」

健太の顔から血の気が引いた。もし期限内に申告できなければ、配偶者の税額軽減は使えなくなり、母は本来かからないはずだった相続税を、法定相続分に応じて負担しなければならなくなる。慌てて計算してもらうと、その額はおよそ400万円にのぼることが分かった。「知らなかった、では済まされないんですね」と健太が呟くと、税理士は静かにうなずいた。

「まだ2か月あります。財産の評価と遺産分割協議書、それに申告書類を今から急いで整えましょう」税理士の言葉に押されるように、家族は総出で預金通帳や不動産の登記事項証明書をかき集めた。土地の評価では路線価を確認し、預貯金は金融機関ごとに残高証明書を取り寄せた。母の幸子も、これまで見たこともなかった書類の山に目を通しながら、「正一さんが元気なうちに、もっとちゃんと話しておけばよかったね」とつぶやいた。

申告期限の11月10日を10日後に控えたある夜、健太はようやく完成した申告書一式を見つめながら、税理士の最初の一言を思い出していた。「税金がかからないから申告しなくていい、という思い込みが一番危ない」——まさにそのとおりだった。もし叔父の紹介がなければ、家族は気づかないまま期限を過ぎ、母に重い税負担を強いるところだったのだ。

税務署の受付窓口で申告書を提出し終えた健太は、大きく息をついた。窓口を出ると、10月の澄んだ空が広がっていた。「無税で済むはずの相続が、申告一つで台無しになるところだった」。健太はその夜、由美に電話をかけ、「税金がかからないと思っても、必ず申告だけはしよう」と念を押した。

後日、税理士のもとに正式な納税額ゼロの通知書が届いた日、幸子は「これでやっと正一さんに顔向けできる」と静かに微笑んだ。健太は、制度を正しく知らなかっただけで家族が400万円もの負担を背負うところだったという事実を、決して忘れないでおこうと心に刻んだ。

学びのボックス


配偶者の税額軽減とは配偶者が取得した遺産のうち、1億6000万円と配偶者の法定相続分相当額のいずれか多い金額まで、相続税がかからない制度(相続税法19条の2)
適用には申告が必須この特例は自動的に適用されるものではなく、相続税の申告書を期限内に提出することが適用の要件となる
申告期限は10か月相続の開始を知った日の翌日から10か月以内に、被相続人の住所地を管轄する税務署へ申告書を提出する必要がある
税額ゼロでも申告は必要特例を使えば納税額が0円になる場合でも、申告書自体は必ず提出しなければならない点に注意
未分割の場合の手当て遺産分割が期限に間に合わない場合は「申告期限後3年以内の分割見込書」を提出しておくことで、分割確定後に特例を適用できる

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