[相続のお話]熟年再婚の夫が遺した『遺言加除』のミス

熟年再婚の夫が遺した『遺言加除』のミス


手書き遺言の訂正方式違反が招いた、再婚相手と息子の泥沼対立

高橋恵子が夫・正一と再婚したのは、お互い還暦を過ぎてからだった。恵子にとっては二度目の結婚。正一には先妻との間に息子が一人おり、恵子とはあまり交流がなかった。正一は自宅の名義は自分のままだったが、「もし自分が先に逝ったら、この家は恵子に遺したい」と繰り返し口にしていた。息子には既に生前贈与で十分な資産を渡してあるから、家は恵子に、というのが正一の考えだった。結婚してからの十年間、恵子は正一の身の回りの世話をしながら二人で穏やかに暮らしてきた。だからこそ正一の「家を遺したい」という言葉を、恵子は素直に受け止めていた。

正一は数年前、専門家に頼らず、自分で便箋に遺言書を書いた。「自宅の土地建物は妻・恵子に相続させる」という内容だった。ところが去年、たまたま知り合いの税理士と雑談した際に「不動産の表示は登記簿どおりに正確に書いたほうがよい」と助言され、正一は遺言書の該当箇所を書き直すことにした。番地の一部を二重線で消し、正しい地番を余白に書き加えた。忙しさにかまけて、訂正箇所への押印を忘れ、変更した旨の付記や署名もしないまま、遺言書はそのまま金庫にしまわれた。本人にとっては軽い書き直しのつもりだったのだろう。

正一が心筋梗塞で急逝したのは、それから半年後のことだった。恵子が金庫から遺言書を取り出し、家庭裁判所で検認を受けたところ、司法書士から思いがけない指摘を受けた。「この訂正部分は、民法が定める方式を満たしていません。自筆証書遺言の加除訂正は、遺言者が変更の場所を指示し、変更した旨を付記したうえで特に署名し、さらに変更した場所に押印しなければ効力を生じないと定められています。押印がなければ、その訂正自体が無効になります」。恵子は、正一が几帳面な性格だっただけに、まさかそんな見落としがあるとは想像もしていなかった。

恵子は青ざめた。訂正が無効だとすると、遺言書に書かれた地番はどちらが有効なのか。もとの地番のままなのか、それとも訂正後の地番なのか。解釈をめぐって、疎遠だった正一の息子が「そもそも遺言書全体が正一の真意を反映していない疑いがある」と主張し始め、遺産分割は泥沼の様相を呈していった。息子にとっても、生前贈与を受けたとはいえ、育った実家がまるごと再婚相手に渡ることには納得しがたい思いがあったのだろう。話し合いは平行線をたどり、恵子は夜も眠れないほど追い詰められていった。

司法書士の見立てでは、訂正部分の押印がないだけであれば、訂正前の元の記載が有効なまま生きている可能性が高く、遺言書自体が無効になるわけではないという。しかし、地番の記載が実際の登記と食い違っていることで、不動産をどの範囲まで恵子に相続させる趣旨だったのかが争点となり、結局、恵子と息子は弁護士を立てて協議を重ねることになった。幸い、正一の生前の言動を示すメールや、生活状況を知る友人の証言を積み重ねることで、最終的には自宅全体を恵子が相続する形で和解が成立した。だが、そこに至るまでには半年以上の時間と、決して安くない弁護士費用がかかった。

恵子はこの経験を通じて、遺言書の訂正には民法が定める厳格な方式があること、そしてその一文字の押印漏れが、遺された家族に大きな負担を強いることを痛感した。専門家に確認せず自己流で書き直したことが、結果として半年にわたる争いの火種になったのだ。今では友人に遺言書の話をされるたび、「訂正するくらいなら、面倒でも最初から書き直したほうがいい。できれば公証役場で公正証書遺言にしておくと安心」と伝えるようにしている。

学びのボックス


自筆証書遺言の訂正ルール民法968条2項により、加除訂正は遺言者が変更場所を指示し、変更した旨を付記して署名し、変更箇所に押印しなければ効力を生じない。
押印漏れが招くリスク定められた方式を満たさない訂正は無効となり、訂正前の元の記載が有効なまま残る可能性がある。記載内容の食い違いが争いの火種になる。
遺言書全体への影響訂正部分の方式違反があっても、直ちに遺言書全体が無効になるわけではないが、内容の解釈をめぐって相続人間の対立を招きやすい。
泥沼化を防ぐには訂正が必要になった場合は、書き加えるのではなく、最初から遺言書を書き直すのが安全。訂正の積み重ねは誤りのもとになる。
確実な方法公証役場で作成する公正証書遺言であれば、専門家が関与するため方式不備のリスクを大きく減らすことができる。

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