生命保険金は「あなたのお金」――遺産分割を待たずに動く、みなし相続財産の仕組み
夫が突然倒れて帰らぬ人となったのは、木枯らしが吹き始めた十一月のことだった。
川田美智子(かわだみちこ)、五十七歳。専業主婦として三十年、夫の収入を支えに家庭を守ってきた。長男と長女はすでに独立しており、今は二人で暮らしていた――いや、昨日まではそうだった。
葬儀の準備をしながら、美智子は財布の中身を確認した。夫婦の共有口座には生活費として三十万円ほど残っていたが、葬儀社への支払いだけで百万円を超える。足りない。
長男の慎也が「父さんの口座からおろせないの?」と尋ねた。美智子はかぶりを振った。「銀行が死亡を知ったら、口座を凍結するって聞いたことがある。遺産分割が終わるまで動かせないって……」
その夜、慎也がインターネットで調べてみると、確かに金融機関は死亡の届け出を受けた後、被相続人名義の口座を凍結することが多い。遺産分割協議が整わないうちは、原則として相続人全員の同意なく引き出すことはできない。
(当面の生活費も、葬儀代も、どこから出せばいいんだ……)
翌朝、夫の会社から電話があった。「奥様、生命保険の受取人がご登録されていますので、保険会社にご連絡ください」
美智子は夫が会社の団体保険に加入していたことを、半ば忘れていた。急いで保険会社に連絡すると、担当者はこう説明してくれた。「奥様が受取人としてご登録されていますので、所定の書類をご提出いただければ、おおむね一週間から十日程度でお支払いできます」
死亡保険金は二千万円。美智子は耳を疑った。
後日、知人の紹介で会った税理士の森田さんが、この仕組みをわかりやすく説明してくれた。
「生命保険の死亡保険金は、受取人固有の財産です。亡くなった夫さんの遺産ではないため、遺産分割の対象になりません。受取人が奥様であれば、遺産分割協議の結果を待たず、奥様が単独で請求・受取できます」
美智子は「でも、相続税はかかるんですか」と尋ねた。
「はい、生命保険金は『みなし相続財産』として相続税の課税対象になります。ただし、非課税枠があります。『五百万円×法定相続人の数』が非課税になります」
川田家の法定相続人は、妻の美智子、長男の慎也、長女の三人だ。非課税枠は五百万円×三人で一千五百万円。受取った二千万円のうち、一千五百万円は相続税がかからず、残りの五百万円が課税対象の計算に加算される。
「遺産分割が終わるまでお金が一切動かないと思い込んでいました」と美智子が言うと、森田さんは静かにうなずいた。「多くの方が同じ誤解をされています。生命保険は、遺族が当面の生活を守るためにすぐ動かせる財産です。ご主人がそのために準備されていたのかもしれません」
美智子は、夫が何も言わずに備えてくれていたことを思った。葬儀代も、生活費も、保険金でまかなうことができた。
遺産分割は、それから数か月かけてゆっくり整えていけばいい。今はまず、目の前のことを一つずつ片付けよう。美智子は静かに、そう決めた。
学びのボックス:生命保険金とみなし相続財産
| 生命保険金の性質 | 死亡保険金は「受取人固有の財産」。亡くなった人の遺産ではないため、遺産分割協議の対象外。 |
| 受取のタイミング | 受取人が単独で請求できる。遺産分割の完了を待つ必要がなく、葬儀費用や当面の生活費にすぐ充てられる。 |
| 相続税上の扱い | みなし相続財産として相続税の課税対象になる。ただし非課税枠が適用される。 |
| 非課税枠の計算 | 500万円×法定相続人の数。法定相続人が3人なら1,500万円まで非課税。 |
| 口座凍結との違い | 被相続人名義の銀行口座は死亡後に凍結されるが、生命保険金は受取人名義の権利のため凍結されない。 |
| 注意点 | 受取人が「相続人」以外に設定されている場合、非課税枠が適用されないケースがある。契約内容の確認が重要。 |
※税務上の取扱いは個別事情により異なります。詳しくは税理士または税務署にご確認ください。
