争族を防いだ父の一手
岡本裕之(61歳)は、父の葬儀が終わって一週間後、弟の克也(58歳)と妹の由美(54歳)を実家に集めた。三人が顔を合わせるのは数年ぶりだった。それぞれに家庭を持ち、生活の場も遠く離れていた。父が元気なうちは正月ぐらいしか顔を合わせる機会がなかったが、父の死が三人を引き寄せた。リビングのテーブルを囲みながら、裕之は少し緊張していた。遺産の話を切り出すのは気が重かった。
父の書斎を整理していると、一冊のファイルが出てきた。表には「家族へ」と書かれていた。中を開けると、公正証書遺言の控えと、便箋に手書きされた長い手紙が入っていた。三人は無言でそれを見つめた。
公正証書遺言の内容はシンプルだった。自宅の土地と建物は裕之に、預貯金は三人で均等に——というものだった。なぜ自宅だけが裕之に与えられるのか、遺言書本体には記載がなかった。克也の顔が少し曇るのを、裕之は感じた。
しかし、手書きの手紙に父の思いが丁寧に綴られていた。「裕之は十年以上、近くに住んでお母さんの介護を手伝ってくれた。その感謝の気持ちとして、自宅を裕之に任せることにしました。克也と由美には預貯金を均等に渡します。三人で仲良くしてほしい。それだけが私の願いです。お父さんより」。父の文字は少し震えていたが、言葉は明確だった。
克也は手紙を読み終えた後、しばらく黙っていた。由美は目を赤くしていた。数分の沈黙の後、克也が口を開いた。「お父さんがそこまで考えてくれていたなら……わかった。遺言書の通りにしよう」。由美も小さく頷いた。裕之はようやく息をついた。
後日、三人は司法書士に相談した。司法書士はこう説明した。「手紙のような付言事項は法的な効力はありませんが、遺言者の気持ちや理由を伝える大切な役割を果たします。遺言書だけでは『なぜそうしたのか』が伝わらず、相続人が感情的になることがあります。付言事項があることで、遺族が納得しやすくなり、争いを防ぐ効果が非常に高いです」
「お父様はもう一つ大切なことをされていました」と司法書士は続けた。「数年前に家族で集まって、自分の考えを話されていたそうですね。事前に意思を伝えておくことで、相続人が驚かずに済みます。遺言書は死後に初めて開かれますが、生前に気持ちを共有しておくことが、最大の争族対策になります。お父様の準備は、非常に理想的なものでした」
裕之は帰り道、父が何年もかけて準備をしてくれていたことを改めて感じた。遺言書を作り、手紙を書き、家族会議を開いた——それは父なりの愛情の形だったのだと思った。財産よりも、家族の絆を守ろうとした父の思いが、今になって深く伝わってきた。
相続で家族が揉める「争族」は珍しくない。しかし、公正証書遺言に加えて付言事項で気持ちを伝え、生前に家族会議で意思を共有しておくことで、争いの芽を摘むことができる。早めの準備が、家族への最大の贈り物になる。
この記事で学べること
相続争いを防ぐには、公正証書遺言に加えて「付言事項」で気持ちや理由を伝えることが効果的です。付言事項に法的効力はありませんが、相続人が納得しやすくなります。生前の家族会議も争族対策の最大の武器です。
