認知症の兆候:遺言書を作ったのは誰?
「この遺言書は無効です。父には、あの時すでに遺言を書く判断力がなかった」
地方裁判所の廊下で、次男の安田裕樹(五十一歳)は静かに、しかし決然と言った。
父・安田正雄が他界したのは八ヶ月前。残された公正証書遺言には「全財産を長男・義明に相続させる」と書かれていた。遺言の作成日は父が八十一歳のとき——当時すでに、かかりつけ医から軽度認知症と診断されてから一年が経っていた。
長男の義明(五十四歳)は「父は自分の意思で書いた。私が誘導したわけではない」と反論する。しかし裕樹の目には、介護の大半を担ってきた義明が父を「使った」ように映っていた。
遺言能力——「わかる」とはどういうことか
裕樹が依頼した弁護士の本間先生は、まず法律の基本を整理した。
「遺言を有効に作成するためには、遺言能力——自分の財産・相続人・遺言の法的効果を理解できる判断能力——が必要です(民法九六三条)。認知症の診断があっても、軽度であれば遺言能力が認められることはあります。重要なのは、遺言を作った瞬間に、その能力があったかどうかです」
「軽度認知症でも有効になりうるということですか」と裕樹は驚いた。
「そうです。認知症の程度、作成当日の状態、遺言の内容の合理性——これらを総合的に判断します。裁判所は診断書だけで決めるわけではありません」
証拠の戦い
裕樹が集めた証拠は三つだった。一つは父の主治医による診断書——「中等度の認知症が認められ、日常生活に支障を来している」という記録だ。遺言作成の三ヶ月前の日付がある。
二つ目は介護施設の記録。入所していたデイサービスの職員が書き残した日誌には「本日、本人は日付・家族の名前を混同する場面あり」という記述が複数あった。
三つ目は近隣住民の証言。「義明さんが来た翌日、正雄さんが『息子に言われた通り書いた』と話していた」という隣人の記憶だ。
義明側も証拠を出した。公証人の陳述書——「遺言作成当日、正雄さんは質問にはっきり答え、意思能力に問題は見受けられなかった」という内容だ。
裁判所の判断
法廷での争点は、「遺言作成当日の父の状態」に絞られた。
裁判所は鑑定人を選任し、当日の診断書・カルテ・介護記録・公証人の観察を総合的に評価した。結果、「中等度の認知症は認められるが、公証人との応答内容・遺言書の内容の相当性・作成当日に意思能力を排除する具体的な事象がないことを踏まえると、遺言能力の欠如とまでは認められない」という判断が下された。
裕樹は控訴を検討したが、本間先生は率直に言った。「公証人が立ち会った公正証書遺言を無効にするハードルは高い。追加の証拠がなければ、結果は変わらないと思います」
裕樹は訴えを取り下げた。後悔と割り切りが入り混じったまま。
争いを生まないために
「最初から公証人が関与していたことが、義明さん側に有利に働いた」と本間先生は振り返った。「認知症が進む前に遺言書を作る。作成当日に医師の診断書を取る。可能なら動画で本人の意思を記録する——これが争いを防ぐための唯一の備えです」
遺言書は「誰が書いたか」ではなく、「書いた本人に能力があったか」が問われる。判断力が揺らぐ前に、自分の意思を法的な形に残すこと——それが家族を守る最後の砦だ。
学びのボックス:遺言能力と認知症争いのポイント
| 遺言能力とは | 遺言を作成するために必要な法的判断能力(民法963条)。遺言者が「自分の財産・相続人・遺言の効果」を理解できる状態にあることが必要。認知症があっても軽度なら認められることがある。 |
| 無効を主張する側の立証責任 | 遺言の無効を主張する者(次男など)が、作成時に遺言能力がなかったことを立証する必要がある。診断書・カルテ・介護記録・通帳の使用状況などが証拠になる。 |
| 有効性判断のポイント | ①作成時の精神状態(診断書・認知症テストの結果)、②公証人・医師などの立会いの有無、③遺言内容の合理性、④第三者による誘導・詐欺・強迫の有無——を総合的に判断。 |
| 公正証書遺言の有利性 | 公証人が面前で遺言者の意思を確認するため、公正証書遺言は遺言能力が争われた場合に有効性を認められやすい。認知症の疑いがある場合は作成当日に医師の診断書を取得しておくことも有効。 |
| 争いを防ぐ生前対策 | 認知症が進む前に遺言書を作成する。公正証書遺言を選ぶ。作成時に医師の診断書と動画記録を残す。長期間にわたる介護記録を保存する——これらが紛争予防の具体的手段。 |
