家族を壊す『名義預金』の恐怖
母が残した「愛情の貯金」
村上彩(45歳)が母・照子の遺品を整理していると、押し入れの奥から古い封筒が出てきた。
中には通帳が三冊。一冊は彩の名義、一冊は弟・拓也(42歳)の名義、もう一冊は彩の長女・菜月(17歳)の名義だった。それぞれに数百万円単位の残高が記帳されている。
「お母さん、こんなに貯めてくれていたんだ……」
照子は毎年、子どもや孫のために少しずつ口座にお金を入れ続けていたのだ。本人には一切知らせず、いつかまとめてあげるつもりで。通帳も印鑑も、自分の引き出しに大切にしまっていた。
彩は胸が熱くなった。しかしその感動は、三か月後に届いた一通の封書で一変することになる。
税務署からの「お尋ね」
相続税の申告書を提出して間もなく、彩の自宅に税務署からの文書が届いた。「相続財産の確認について(照会)」——いわゆる「お尋ね」と呼ばれる書類だった。
担当の税理士・橋本先生に相談すると、深刻な顔で言われた。
「お母様名義以外の通帳三冊について、説明を求められています。税務署はこれを『名義預金』と判断している可能性があります」
名義預金——彩にとって初めて聞く言葉だった。
「名義は彩さんや拓也さん、お孫さんになっていますが、実際に管理していたのはお母様ですよね。贈与の契約書はありますか? 受け取ったことを当時ご存じでしたか?」
答えはすべて「ノー」だった。彩も拓也も、この口座の存在を今日まで知らなかった。通帳も印鑑も照子が持ち続けていた。
「名義が違っても、お母さんの財産です」
橋本税理士の説明は明快だった。
名義預金とは、口座の名義こそ別人であっても、実質的な管理・支配が被相続人にあった預金のことをいう。税務署は「誰の名前の口座か」ではなく「誰がお金を支配していたか」で判断する。
今回のケースでは、照子が通帳と印鑑を保管し、子や孫は口座の存在すら知らなかった。贈与契約書もない。これはほぼ確実に名義預金と認定される、と橋本税理士は言った。
「つまり、三口座の合計約1,100万円は、お母様の相続財産に加算されます。申告漏れとなりますので、追徴課税の対象になります」
彩は頭が真っ白になった。「母の愛情で貯めてくれたお金なのに」
「税務署はそう見ません。手続きが伴わない善意は、法的には贈与として成立していないんです」
正しい贈与には「形」が必要だった
後日、橋本税理士は彩に「正しい贈与」の条件を丁寧に教えてくれた。
贈与が法的に成立するには、三つの要素がそろわなければならない。第一に、贈与契約書を作成すること。あげる側ともらう側の双方が署名・押印した書面が必要だ。第二に、もらう側の口座に振り込む形でお金を渡すこと。現金手渡しではなく、記録が残る方法が望ましい。そして第三に、もらった側が通帳と印鑑を自分で管理し、自由に使える状態にあること。
「毎年110万円以内なら贈与税はゼロです。でも、手続きが正しくなければ、税務署には『贈与ではなく名義預金』と判断されてしまう」
照子がしていたことは、気持ちとしては完全な贈与だった。ただ「形」がなかった。
彩は弟と話し合い、追徴税額を納めることにした。ペナルティを含めた税額は想定を大きく上回ったが、それ以上につらかったのは、母の善意が「脱税」として処理されるような感覚だった。
善意を守る「正しい手続き」
翌年から彩は、自分の子どもへの贈与を弁護士・税理士に相談しながら進めることにした。毎年、贈与契約書を作成し、子どもの口座に振込み、子ども自身が通帳を管理する。
「お母さんがやりたかったことを、ちゃんとした形でやり直すわ」
善意は形になって初めて、法律に守られる。名義預金の教訓は、家族への愛情を正しく届けるための「手続きの大切さ」を、静かに、しかし確かに教えていた。
学びのボックス
| ポイント | 内容 |
| 名義預金とは | 口座の名義は子や孫でも、実際に管理・支配していたのが被相続人である預金。相続税の対象になる |
| 税務署が名義預金と判断する基準 | ①贈与契約書がない ②受取人が口座の存在を知らない ③通帳・印鑑を被相続人が管理していた ④受取人が自由に使えない |
| 正しい贈与の3条件 | ①贈与契約書を作成する(受取人の署名・押印) ②受取人名義の口座に振込む ③受取人が通帳・印鑑を自分で管理する |
| 贈与税の基礎控除 | 年間110万円以内なら贈与税はゼロ。ただし毎年同額・同時期の贈与は「定期贈与」とみなされる場合があるため注意 |
| 申告が必要なケース | 2024年以降、相続時精算課税制度の改正により年110万円超の贈与は申告が必要。制度変更を定期的に確認すること |
