『争続』を避ける『付言事項』の魔法
公証役場から届いた封筒を開けたとき、次男の岩田浩二(51歳)の顔色が変わった。
父・岩田文雄が遺した公正証書遺言。その内容は単純明快だった。自宅不動産と大半の預金を長男の一郎(54歳)に、残りの預金の三分の一ほどを浩二に——。
「ひどい。おれは何ももらえないも同然じゃないか」
浩二の怒りはもっともだった。長男と次男では、受け取る財産に三倍近い差がある。浩二はすぐに弁護士への相談を決め、「遺留分侵害額請求も辞さない」と一郎に宣言した。兄弟の間に深い亀裂が入ろうとしていた。
遺言書の最後のページ
その夜、もう一度封筒の中を確認した一郎は、遺言書の末尾にまだ続きがあることに気づいた。法定の記載事項のあと、「付言事項」と題された一節だ。
一郎はゆっくりと読み始めた。
「浩二へ。お前が不満に思うのは当然だと思う。しかし理由を聞いてほしい。一郎は十五年間、母の介護を一人で担い続けてくれた。私が入院していた三年間も、毎週病院に来て、仕事の合間に手続きを引き受けてくれた。その苦労に、財産という形で応えたかった。お前への愛情は少しも変わらない。東京で家族を守り、自分の力で生きてきたお前を、父は誇りに思っている。どうか一郎と仲良くしてくれ。それが私の最後の願いだ」
言葉が、感情を変えた
一郎は浩二に電話し、付言事項を読み上げた。
電話口の浩二はしばらく黙っていた。
「……知らなかった。一郎がそんなに介護してたなんて」
浩二は遠方に暮らしており、母の晩年の日常をほとんど知らなかった。父の言葉は初めて、その現実を浩二に届けた。
翌日、浩二は弁護士への相談をいったん保留にした。「お父さんの気持ちはわかった。すぐには納得できないけど……裁判にはしたくない」
付言事項に法的効力はない、でも
後日、司法書士の村上先生にこの経緯を話すと、先生は静かに頷いた。
「付言事項には法的な強制力はありません。浩二さんが遺留分侵害額請求をする権利は、読んだあとも消えていません。ただ、人は理由を知ると感情が変わる。それが付言事項の力です」
村上先生によれば、相続の紛争案件の多くは、財産の多寡よりも「親が自分のことをどう思っていたか」という感情的な不満から発生するという。配分の「なぜ」が伝わるだけで、争いが消えることは珍しくない。
「遺言書を作るとき、付言事項を書くかどうかで、残された家族の未来が変わることがある。法律的な言葉だけでは届かないものを、人の言葉は届けられます」
■父の最後の贈り物
三ヶ月後、浩二は遺留分の請求を取り下げることを一郎に伝えた。
「全部納得したわけじゃないよ。でも、お父さんの言葉を読んで……争う気持ちがなくなった」
遺産よりも大切なものがある——岩田家の兄弟はその冬、三年ぶりに同じ食卓を囲んだ。父・文雄が最後に書いた数行の言葉が、その席を用意した。
遺言書に添える一言は、法的効力のある財産目録と同じくらい、いやそれ以上に、家族の未来を守る力を持つことがある。
学びのボックス:付言事項のポイント
| 付言事項とは | 遺言書の法定記載事項(財産の分配内容など)とは別に、家族へのメッセージや配分理由を自由に書き添える部分。法的効力はないが、争いを防ぐ実務上の力を持つ。 |
| なぜ重要か | 遺産の配分が不均等でも、「なぜそうしたか」の理由が丁寧に伝わると、不満を抱いた相続人が感情的な行動に出にくくなる。遺族の心理的納得感を生む。 |
| 書くべき内容 | ①配分に至った具体的な理由(介護の貢献・生前贈与の有無など)、②各相続人への感謝の言葉、③家族の絆を守ってほしいという願い。 |
| 遺留分との関係 | 付言事項に法的効力はなく、遺留分侵害額請求を防ぐことはできない。ただし感情的な争いを抑制し、請求に至らないケースも多い。 |
| 公正証書遺言での活用 | 公証人に付言事項を含めて遺言書を作成してもらうことができる。手書きの自筆証書遺言でも付言事項は有効。文章の長さに制限はない。 |
