『遺産分割協議書の電子署名』リモート相続手続きの最前線
佐伯美咲は五十二歳。東京で暮らしている。先月、八十一歳の父が亡くなった。相続人は、美咲、福岡に住む兄の隆、札幌に住む妹の恵の三人。母はすでに他界している。遺産は、東京の自宅と預貯金で、合わせて約五千万円。三人で話し合い、美咲が自宅を取得し、預貯金は三人で分けることで、おおむね合意できた。
問題は、そのあとの手続きだった。遺産分割協議書に、全員が署名して実印を押し、印鑑証明書を添える必要がある。三人が離れて暮らしているため、書類を郵送し合うことになる。兄は仕事で不在がちで、妹は小さな子どもがいて、役所に行く時間が取れない。「紙のやり取りだけで、二、三週間かかりそう」。美咲は、ため息をついた。途中で書類が行き違いになれば、さらに時間がかかる。
相談した司法書士の中島さんは、電子署名を使う方法を教えてくれた。美咲は、パソコンが得意なほうではなく、少し不安だった。「協議書をPDFで作り、相続人が電子署名をします。マイナンバーカードの署名用電子証明書を使う方法が、代表的です」。中島さんの説明は、落ち着いていて、分かりやすかった。
遺産分割協議書は、書面にしなければ無効になるものではない。ただ、不動産の登記や預貯金の解約では、全員が合意した内容を示す書類が求められる。電子署名には、電子署名法にもとづき、本人が行ったものと推定される効果がある。押印と同じような役割を、オンラインで果たせるという考え方だ。
中島さんは、手順を示した。まず、オンライン会議で、三人が分割の内容を確認する。次に、中島さんが協議書のデータを作り、メールで送る。三人は、それぞれ自宅から、スマートフォンやカードリーダーで、マイナンバーカードを読み取り、署名用電子証明書のパスワードを入力して、署名する。署名の時刻が記録されるため、あとから内容を書き換えられていないかも、確認できる。全員分の署名がそろったデータを、司法書士が保管する。
ところが、準備の段階で、つまずきが出た。妹の恵は、マイナンバーカードのパスワードを忘れていた。署名用の電子証明書は、パスワードを何度も間違えるとロックされ、市区町村の窓口で再設定が必要になる。恵は、子どもを預けて、平日に役所へ出向くことになった。兄の隆も、カードの電子証明書の期限が切れる直前だったため、あわてて更新に行った。
さらに、中島さんは、大事な注意点を伝えた。電子署名した協議書を、どこでも使えるとは限らない。法務局への登記は、オンライン申請で電子署名付きの書類を使える場合があるが、方式や添付する証明書に条件がある。金融機関によっては、紙の協議書と印鑑証明書を求めるところも、まだ多い。手続きの前に、提出先へ確認が必要だという。美咲は、メモを取りながら、うなずいた。
美咲は、取引銀行に電話した。案の定、その銀行は電子の協議書を受け付けておらず、紙での提出を求められた。美咲は、少しがっかりしたが、気持ちを切り替えた。そこで、登記は電子署名で進め、預貯金の解約は、紙の書類で、取引銀行ごとに対応することにした。
登記は、約二週間で完了した。美咲は、全員で顔を見ながら話し合い、電子署名で合意できたことが、大きな安心になったと話す。郵送の往復を待つ間の不安が、ほとんどなかったからだ。オンラインの手続きが便利になっても、提出先の対応を確認し、本人確認とパスワードの管理を丁寧に行うことは、変わらず大切だという。
学びのボックス
| 協議書の電子署名 | 電子署名法にもとづき、本人が行ったと推定される電子署名は、押印と同様の役割を果たすと考えられている。マイナンバーカードの署名用電子証明書が代表的。 |
| 基本の流れ | オンライン会議で内容を確認し、司法書士などが協議書データを作成。各相続人が電子署名し、全員分がそろったデータを保管する。 |
| 事前に確認したいこと | 署名用電子証明書のパスワードや有効期間を確認する。パスワードを何度も間違えるとロックされ、窓口での再設定が必要になる。 |
| 提出先ごとに対応が違う | 登記は電子署名付き書類を使える場合があるが、方式や証明書に条件がある。金融機関は紙の協議書を求めることも多く、事前確認が必要。 |
| 変わらない基本 | 全員の合意と内容の確認、本人確認、パスワードの管理が大切。不安があれば、司法書士などの専門家に早めに相談したい。 |
