『ペットの相続』負担付遺贈とペット信託で遺された愛犬を守る
野村和代は七十九歳。夫を亡くしてから、柴犬のコタロウと二人で暮らしている。子どもはいない。相続人になるのは、遠方に住む甥の健太だけだ。コタロウは八歳。元気だが、自分に万一のことがあったら、この子はどうなるのだろう。そう考えると、夜、眠れない日があった。散歩の途中、足元に寄り添うコタロウを見ると、その思いはいっそう強くなった。
和代は、司法書士に相談した。司法書士は、まず基本を説明した。ペットは、法律上は物として扱われる。コタロウ自身が財産を相続することはできない。「世話をしてくれる人に、飼育費と一緒に託す形を考えましょう」。
和代の頭に浮かんだのは、散歩仲間の吉川恵子さんだった。コタロウをかわいがり、犬を飼った経験も長い。和代が頼むと、吉川さんは、目を潤ませて「喜んで引き受けるわ」と答えた。「あなたの大事な子だもの、責任を持つわ」。その言葉に、和代は、肩の荷が少し下りた気がした。
司法書士が提案したのは、負担付遺贈だった。吉川さんに現金五百万円を遺贈する代わりに、コタロウを最期まで大切に飼うことを負担とする遺言だ。金額は、犬の寿命や、毎年の食費、医療費の見込みから逆算した。一年あたりの費用は、約三十万円と見込み、病気やけがの備えも加えて、五百万円とした。ただし、遺贈を受けるかどうかは、受け取る側が決められる。吉川さんが辞退すれば、飼育は託せない。だから、事前に承諾を得ておくことが欠かせない。
和代は、公正証書遺言を作ることにした。遺言には、コタロウの飼育を負担とすること、かかりつけの動物病院、好きなフードや散歩の習慣も書き添えた。吉川さんが困らないよう、コタロウの性格や、苦手な音のことも、手紙にして添えた。遺言執行者には、司法書士を指定した。遺言執行者は、遺言の内容を実現する役割を担う。
気になるのは、吉川さんが、もし飼育を怠ったときだ。司法書士は、民法の仕組みを教えてくれた。負担付遺贈の受遺者が、負担した義務を履行しないとき、相続人は、相当の期間を定めて履行を催告できる。それでも履行されなければ、家庭裁判所に、遺言の取消しを請求できると考えられている。つまり、遺言は自動的になくなるのではなく、裁判所の手続きが必要になる。
そこで和代は、甥の健太にも事情を話した。甥は、「叔母さんの気持ちは分かった。コタロウのことは、僕も気にかけるよ」と言ってくれた。甥には遺留分がないため、遺言の内容で争いになる心配は、少ない。ただ、吉川さんは相続人ではないので、受け取る遺贈には、相続税が二割加算になる場合がある。金額や遺産全体によっては、課税されないこともあるため、確認が必要だという。和代は、税理士にも相談するつもりだ。
司法書士は、別の方法として、ペット信託も紹介した。飼い主が生前に、財産を信託して、飼育費を管理する人を決めておく仕組みだ。飼育費を、一度に渡さず、毎月など少しずつ渡せる。契約の内容によっては、飼い主を交代させる仕組みも作れる。飼育状況を確認する人を置くこともできる。ただし、費用がかかるうえ、扱える専門家も多くはない。
和代は迷った末、まず遺言で備えることにした。遺言なら、いつでも自分で見直せる。コタロウとの毎日は、これからも続く。和代は今、吉川さんに会うたびに、コタロウの好きな遊びを、少しずつ伝えている。大切な家族を守る備えは、元気なうちに、人と話し合って決めること。和代は、そう実感している。
学びのボックス
| ペットは相続できない | ペットは法律上は物として扱われ、ペット自身が財産を相続することはできない。飼育費は、世話をする人に託す形を考える。 |
| 負担付遺贈 | 飼育を負担として、世話をする人に飼育費を遺贈する方法。受遺者は辞退できるため、事前に承諾を得ておくことが欠かせない。 |
| 飼育を怠った場合 | 受遺者が負担を履行しない場合、相続人は期間を定めて催告できる。履行がなければ、家庭裁判所に遺言の取消しを請求できると考えられている。 |
| 遺言執行者と税の確認 | 遺言執行者を指定しておくと実現しやすい。相続人以外への遺贈は相続税が2割加算になる場合があるため、税理士に確認したい。 |
| ペット信託という方法 | 財産を信託して飼育費を管理し、少しずつ渡せる。費用や取扱いの専門家の数など課題もあるため、専門家に相談して比較したい。 |
