『死因贈与』口約束のプレゼントの行方
「あの車、返してもらえませんか。父の遺産ですから」
電話口の声は冷たかった。かけてきたのは故人の息子——亡くなった西村健吾の長男・西村剛(三十八歳)だった。
柴田亮介(四十四歳)は受話器を持ちながら、一年前のことを思い返した。
西村健吾は亮介の十五年来の先輩で、趣味の自動車仲間だった。六十二歳で膵臓がんを告知されてから、健吾はよく「もし俺が死んだら、あのポルシェはお前にやるよ。お前だけがわかってくれるから」と話していた。亮介はそのたびに「縁起でもない」と笑い飛ばしながらも、内心ではその言葉を信じていた。健吾が逝去した一ヶ月後、亮介は遺族の一時的な同意のもとで車を引き取っていた。
しかし今——剛から返還を求める電話が来た。
「口約束」は契約になるのか
亮介は弁護士の三上先生に相談した。
「健吾さんが言った『死んだらやる』という約束は、『死因贈与』にあたる可能性があります(民法五五四条)。贈与者の死亡を条件に財産を贈与する契約です。遺言と似ていますが、受け取る側の承諾が必要な『契約』であるという点が異なります」
「では、亮介さんには車を受け取る権利があるんですか」
「問題は証拠です。口頭でも死因贈与は法律上成立しうるとされています。しかし書面がない場合、死後に『合意があった』ことをどう立証するかが極めて難しくなります」
「書面なき死因贈与」は撤回できる
「さらに重要なことがあります」と三上先生は続けた。「最高裁の判例は、書面によらない死因贈与は、遺言の撤回に関する規定を準用して贈与者がいつでも撤回できるとしています。つまり、健吾さんが生前に気が変わって取り消すことも可能でしたし、亡くなった後は遺族(相続人)がその立場を引き継いで取り消しを主張できます」
「相続人が撤回できるということですか」
「そういう解釈が裁判所では有力です。剛さんが返還を求める行為は、死因贈与の撤回の意思表示と見ることができます」
亮介は頭を抱えた。健吾の言葉は本物だったと信じている。しかし信じているだけでは、裁判所では通らない。
証拠を集める
「証拠は何かありますか」と三上先生が尋ねた。
亮介は記憶を辿った。健吾が車を「やる」と言った場面に居合わせた共通の仲間が二人いた。また、健吾が病気になってから亮介に送ったLINEのメッセージの中に「ポルシェのこと、頼むな」という一文があった。
「LINEのメッセージは有力な証拠になります。証人が複数いれば、口頭での合意があったことの証明力が高まります。ただし、それが『死因贈与の合意』と認められるかどうかは裁判官の判断次第です」
三上先生は剛の代理人弁護士と交渉を始めた。LINEの文面と証人二名の供述書を提出したところ、剛側も強く押すことが難しくなった。最終的に「車の時価の三分の一に相当する金銭を亮介が支払う代わりに、所有権を認める」という和解が成立した。
「もし書面があったなら」
「健吾さんが一枚の書面に署名してくれていれば」と亮介は三上先生に言った。
「書面があれば、撤回の問題も立証の問題もずっとシンプルでした。死因贈与を受ける約束をしたら、その場で書いてもらうか、公証役場で公正証書にしておくことが唯一の自衛策です」
口約束はぬくもりがある。しかし法律の世界では、書かれた言葉だけが人を守る。「死んだらやる」という言葉の重さを、亮介は和解成立の書類に署名しながらあらためて噛みしめた。
学びのボックス:死因贈与と立証のポイント
| 死因贈与とは | 贈与者の死亡を条件として効力が生じる贈与契約(民法554条)。生前に「死んだらあげる」と合意することで成立する。遺言による遺贈とは異なり、受贈者の承諾が必要な「契約」。 |
| 口頭の死因贈与は有効か | 死因贈与に書面は要求されておらず、口頭でも法律上は成立しうる。しかし書面がない場合、贈与者の死後に「合意があった」ことの立証が困難になる。 |
| 遺言との大きな違い | 遺言は贈与者(遺言者)が単独でいつでも撤回できる。死因贈与は贈与者・受贈者双方の合意による契約であるため、原則として一方的な撤回は制限される(ただし書面なき死因贈与は撤回可)。 |
| 書面なき死因贈与の撤回 | 最高裁判例は、書面によらない死因贈与は遺言の撤回に関する規定(民法1022条)を準用し、贈与者はいつでも撤回できるとしている。書面の有無が撤回可否を分ける重要な分岐点。 |
| 証明できなければ権利にならない | 死後に「あの人からもらうと約束した」と主張しても、証拠(書面・録音・メール・証人など)がなければ立証は困難。死因贈与を受ける約束をしたら書面化が不可欠。 |
