[相続のお話]遺言執行者が牙をむく?選定の落とし穴

遺言執行者が牙をむく?選定の落とし穴


「兄から何の連絡もありません。預金はどうなっているのか、不動産の手続きはどこまで進んでいるのか——三ヶ月間、一度も報告がない」

次女の橘奈々子(四十九歳)が弁護士の宇田先生の前で訴えたのは、父・橘正雄の四十九日からすでに二ヶ月が過ぎた頃だった。

父の遺言書には「長男・貢を遺言執行者に指定する」と書かれていた。相続人は貢(五十三歳)と奈々子の二人。遺産は実家の不動産と複数の預金口座、合計で推計五千万円規模。遺言の内容は「すべての財産を長男・貢に相続させる」というものだった。

「遺言通りに手続きが進むなら仕方ない。でも何も知らされないまま、気がついたら全部終わっていた——そんなことは許されないと思って」

遺言執行者の「本来の義務」

宇田先生は遺言執行者の法的立場を説明した。

「遺言執行者は、遺言の内容を実現するために広い権限を持ちます(民法一〇一二条)。しかし権限があるというだけでなく、相続人全員の利益のために中立的に職務を行う義務もあります。善良な管理者の注意をもって行動し、相続人に状況を報告する義務が法律上明記されています」

「つまり、報告しないのは義務違反ということですか」

「そうです。特に今回のように、執行者自身が利益を受ける相続人(長男・貢さん)である場合、利益相反的な立場になりやすい。自分に有利な形で手続きを進め、他の相続人への情報開示を怠るというのは、典型的な義務違反のパターンです」

貢が動かした「預金の一部」

奈々子は父の生前に使っていた銀行の支店を訪れ、窓口に確認した。すると、死亡直後に預金口座の一部が解約されていた事実が判明した。

「先生、父が亡くなって二週間以内に、口座から五百万円が動いています。誰がやったんでしょう」

「貢さんが執行者として動いた可能性があります。ただ、執行者が手続きをすること自体は違法ではありません。問題は、その事実を奈々子さんに報告していなかったこと、そして引き出した金銭がどこへ行ったかが不明であることです」

宇田先生は貢に書面で照会状を送り、預金の移動先と目的の説明を求めた。貢は弁護士を立てて応答してきたが、説明は曖昧なままだった。

家庭裁判所への解任申立て

「執行者を交代させることはできますか」と奈々子は尋ねた。

「遺言執行者に任務を怠る事実などの正当事由がある場合、家庭裁判所に解任を申立てられます(民法一〇一九条)。ただし解任が認められるには、具体的な任務懈怠の事実を立証する必要があります。報告がないことに加え、不明朗な資金移動の記録があれば、申立ての根拠になります」

申立てから約四ヶ月後、家庭裁判所は「報告義務の不履行および財産管理の不透明性」を認定し、貢の解任を決定した。新たな遺言執行者として、裁判所が選任した弁護士が就任することになった。

「やっと、まともな手続きが始まる」と奈々子はため息をついた。

最初から「プロ」に頼む

新しい執行者の弁護士は、着任から三週間で財産目録を作成し、奈々子に全財産の一覧を送付してきた。貢が説明しなかった五百万円の行方も、父の生前の医療費支払いのためだったことが領収書で確認された。

「最初から中立な専門家が執行者だったら、こんなに時間も費用もかからなかった」と宇田先生は言った。「遺言書を作るとき、執行者を誰にするかは財産の分け方と同じくらい重要です。利害関係のある親族を指名することは、意図せず争いの火種を植え付けることになりかねません」

遺言執行者の選定は、相続の最後の章を誰が書くかを決める行為だ。親族への信頼と、制度の中立性——そのバランスを、生前に冷静に考えておくことが、残された家族への最大の贈り物になる。

学びのボックス:遺言執行者の義務と解任のポイント

遺言執行者の役割遺言の内容を実現するために必要な一切の行為を行う権限を持つ者(民法1012条)。相続人の代理人ではなく、相続人全員の利益のために中立的に職務を行う義務がある。
善管注意義務と報告義務遺言執行者は善良な管理者の注意をもって職務を行う義務(善管注意義務)と、相続人への状況報告義務を負う(民法1012条・1013条)。これに違反すると解任事由になる。
家庭裁判所への解任申立て遺言執行者に任務を怠る事実その他正当な事由がある場合、利害関係人(相続人など)が家庭裁判所に解任を申立てられる(民法1019条)。解任が認められると新たな執行者が選任される。
解任申立ての難しさ解任が認められるには「任務懈怠の具体的事実」の立証が必要。報告がないだけでは不十分なこともあり、証拠収集・申立書の作成には弁護士の関与が事実上必要になることが多い。
プロを執行者に指名すべき理由弁護士・司法書士などの専門家を遺言執行者に指名することで、中立性・専門性・報告義務の履行が担保される。親族間の利害対立を防ぐためにも、生前のうちに専門家を指名しておくことが望ましい。


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