[相続のお話]『仮払い制度』で葬儀費用を即座に確保

『仮払い制度』で葬儀費用を即座に確保


遺産分割前でも単独で引き出せる仕組みと手続きの流れ

渡辺直美は、父が入院先で息を引き取った知らせを受けたその日から、現実的な問題に追われることになった。葬儀社との打ち合わせ、病院への未払い医療費の精算、菩提寺への支払い。喪主として次々に判断を迫られる中、直美の頭を悩ませたのは、まとまった現金の工面だった。深い悲しみに浸る間もなく、次から次へと請求書が届く現実に、直美は戸惑いを隠せなかった。父は堅実に貯蓄をしてきた人だったので、通帳を確認すれば十分な残高があることは分かっていたが、その口座が今の自分にとってはただの数字にしか見えなかった。

父の預貯金は決して少なくなかったが、口座は死亡の連絡とともに凍結されてしまう。遺産分割協議がまとまるまでは、相続人全員の同意がなければ一円たりとも引き出せないと、直美はどこかで聞いたことがあった。葬儀費用だけでも百数十万円、医療費の精算にもまとまった額が必要になる。直美には弟が一人いたが、遠方に住んでいて、すぐに書類のやり取りをするのは難しそうだった。自分の貯金だけでは到底まかなえず、直美は焦りを募らせた。

葬儀社から紹介された司法書士に相談すると、意外な救済策を教えられた。「実は、遺産分割が終わる前でも、一定額までなら相続人おひとりの判断で払い戻しを受けられる制度があります。『預貯金の払戻し制度』といって、平成三十年の民法改正で新しく設けられました」。司法書士はそう説明した。直美はその言葉を聞いて、初めて肩の力が少し抜けるのを感じた。

制度の仕組みはこうだった。各相続人は、亡くなった人の預貯金債権のうち、相続開始時の残高に法定相続分と三分の一を掛け合わせた金額を、他の相続人の同意なしに単独で引き出すことができる。式で表すと「口座残高×三分の一×法定相続分」となり、直美のように法定相続分が二分の一であれば、残高のおよそ六分の一が計算上の目安になる。ただし、一つの金融機関から引き出せる金額には百五十万円という上限があり、複数の口座がある場合でも、金融機関ごとにこの上限が適用されるという。直美の場合、父の口座残高と自分の法定相続分を計算すると、上限いっぱいの百五十万円を引き出せることが分かった。

手続きは、故人の死亡が確認できる戸籍謄本、相続人全員の関係が分かる戸籍謄本、そして直美自身の印鑑証明書を金融機関の窓口に提出するだけだった。遺産分割協議書も、他の相続人の同意書も必要ない。窓口の担当者は「この制度を使う方が最近は本当に増えています」と話し、必要書類のチェックリストまで用意してくれた。書類に不備がなかったこともあり、数日のうちに手続きは完了した。

引き出した資金で、直美は葬儀費用と医療費の精算を無事に終えることができた。後日、弟とも落ち着いて話し合い、払い戻した金額は将来の遺産分割の際にきちんと精算する前提であることを確認し合った。司法書士は「払戻しを受けた金額は、遺産の一部分割を受けたものとみなされます。使い道を明確にしておくことが、後々のトラブルを防ぐコツです」とアドバイスしてくれた。直美は領収書をすべて保管し、何にいくら使ったのかを一覧にまとめて弟にも共有した。

直美は今回のことで、相続の手続きは冷たく厳格なだけではなく、遺された家族の生活を支えるための工夫も用意されているのだと知った。制度の存在を知っているかどうかで、喪主としての負担は大きく変わるのだと、直美は身をもって実感している。もし制度を知らないまま自己資金だけで乗り切ろうとしていたら、精神的にも金銭的にも、もっと追い詰められていたはずだと、今振り返っても思う。

学びのボックス


預貯金の払戻し制度とは平成30年の民法改正で新設された制度。遺産分割協議が終わる前でも、相続人が単独で一定額の預貯金を引き出せる。
引き出せる金額の計算式相続開始時の口座残高×3分の1×その相続人の法定相続分。金融機関ごとに150万円の上限がある。
必要書類被相続人の死亡が確認できる戸籍謄本、相続人全員の関係が分かる戸籍謄本、払戻しを受ける相続人の印鑑証明書など。
遺産分割協議書は不要他の相続人の同意書や遺産分割協議書がなくても、単独の判断で金融機関の窓口で手続きができる。
払戻し後の注意点払い戻した金額は遺産の一部分割を受けたものとみなされるため、使い道を記録し、他の相続人と共有しておくことが望ましい。

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