[相続のお話]「兄が父に無理やり書かせた」疑惑を晴らした一枚の証明書

「兄が父に無理やり書かせた」疑惑を晴らした一枚の証明書

――自筆証書遺言書保管制度が守った、兄弟の絆

父・浅井信之が八十二歳で亡くなり、長男の剛と次男の賢は、四十九日を終えたばかりの実家で遺品整理を始めた。父の書斎の引き出しの奥から、古びた茶封筒に入った一通の遺言書が見つかったのは、そんな折だった。開封すると、そこには「全財産を長男・剛に相続させる」という一文と、震えたような筆跡の署名、そして押印があった。

次男の賢は、その場で顔色を変えた。「これ、本当に父さんが書いたのか。兄さんが晩年の父さんに無理やり書かせたんじゃないのか。父さんはここ数年、足腰も弱って外出もままならなかったし、物忘れだってひどくなっていた。判断力だって怪しかったはずだ。だいたい、この字だって本当に父さんのものか怪しいもんだ」

剛は身に覚えがないと必死に訴えたが、一度芽生えた疑念は簡単には消えなかった。賢は「筆跡鑑定をする」「家庭裁判所に訴える」とまで言い出し、兄弟の間には重い沈黙と苛立ちだけが積もっていった。母を早くに亡くし、父ひとりを頼りに育ってきた二人だったからこそ、その溝は深く、遺産分割協議どころではない空気が続いた。近所の人に相談すると「そういう揉め事は珍しくない、専門家に見てもらった方がいい」と言われ、賢はますます頑なになっていった。

転機となったのは、遺言書そのものではなく、その「保管のされ方」だった。実はこの遺言書、父が三年前、自らの意思で法務局に足を運び、「自筆証書遺言書保管制度」を利用して預けていたものだったのだ。剛が法務局の窓口で交付を受けた「遺言書保管事実証明書」を賢の前に差し出すと、賢の表情が固まった。

この制度では、遺言者本人が必ず窓口に出向き、法務局職員の面前で本人確認を受けたうえで、日付・氏名・押印の有無といった民法所定の形式面のチェックを受けてから、初めて原本が保管される。家族であっても代理で持ち込むことはできず、いったん預けた後に内容をこっそり書き換えたり差し替えたりすることも構造上まったく不可能だ。つまり「誰かに無理やり書かせた」ことも「後から偽造した」ことも、そもそも制度上入り込む余地がないのである。

さらに賢が調べていくと、通常の自筆証書遺言なら必ず必要になる家庭裁判所の「検認」手続が、この制度を利用していれば不要だと分かった。相続開始後は法務局で「遺言書情報証明書」を取得すれば、それだけで銀行や法務局での手続きに進める。実際、剛はわずか数日で証明書を取得し、預金の解約も不動産の名義変更も滞りなく終えていた。もし本当に強迫や偽造があったのなら、これほど早く、これほど円滑に手続きが進むはずがない。それこそが何よりの証明だった。加えて、保管を申請した際の記録には、父が窓口で職員と交わした受け答えの様子まで記録として残っており、当時の父が自分の意思ではっきりと申請内容を説明していたことも確認できた。

賢は法務局のホームページで制度の仕組みを自分の目で確かめ、ようやく肩の力を抜いた。「疑って悪かった。証拠もないのに、勝手に決めつけてしまったな。父さんも、まさかこんな形で俺たちの喧嘩の種を消してくれるとは思ってなかっただろうな」剛も静かにうなずいた。「俺だって、父さんが本当にちゃんと書いたのか、実は少し不安だったんだ。この証明書のおかげで、俺自身も安心できたよ」二人は久しぶりに笑い合い、父の遺した家の片付けを、また一緒に始めることにした。

自筆証書遺言書保管制度は、遺言者本人の最終意思を法的に守るだけでなく、遺された家族同士の無用な疑心暗鬼や争いを未然に防ぐという、もう一つの大きな役割を果たしている。法務局という第三者によるチェックという「見えない防波堤」が、この日、兄弟の絆を静かに守り抜いたのだった。

学びのボックス


項目内容
自筆証書遺言書保管制度とは法務局が自筆証書遺言の原本を保管する制度(2020年7月10日施行)。遺言者本人が法務局に出向いて申請する。
保管時の形式チェック遺言者本人確認のうえ、日付・署名・押印など民法所定の形式要件を法務局職員がその場で確認してから預かる。
偽造·変造リスクの排除保管された原本は本人以外が内容を書き換えたり差し替えたりすることが物理的にできない。
家庭裁判所の検認が不要通常の自筆証書遺言と異なり検認手続が不要なため、相続開始後すぐに各種手続きへ進める。
相続開始後の取得手続き相続人は法務局で「遺言書情報証明書」を取得し、それを使って預金解約や名義変更を行う。

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