[相続のお話]認知症の母と『後見人』の冷たい一言

認知症の母と『後見人』の冷たい一言

「母の施設の費用を工面するために、実家を売りたい。でも後見人の先生が『簡単にはいきません』と言うんです」

長男の倉田悟(五十七歳)が司法書士の相談窓口を訪れたのは、母・倉田光子(八十三歳)が認知症の診断を受けてから一年が経ったころだった。

光子は現在、有料老人ホームに入所中。月額費用は約二十五万円。年金収入だけでは賄いきれず、悟が補填してきたが限界に近い。実家は空き家になっており、売却すれば三千万円程度になる見込みだ。

しかし家庭裁判所に後見の申立てをして選任されたのは、悟の知らない弁護士・大城先生だった。「後見人が弁護士になると思っていなかった」と悟は言う。そして大城先生からこう告げられた。「お母様の居住用不動産の売却は、家庭裁判所の許可が必要です」

後見人は「家族の代理人」ではない

「どういうことですか。私が申立てたのに、なぜ私の言う通りにならないんですか」

大城先生は丁寧に説明した。「成年後見人の役割は、本人(お母様)の財産と生活を守ることです。家族の方の利益や希望を代弁することではありません。私は家庭裁判所の監督のもとで、光子さん本人の利益を最優先に動かなければなりません」

「でも介護費用のための売却は、母のためになるはずです」

「その通りかもしれません。しかし居住用不動産の売却は、民法八五九条の三に基づき、家庭裁判所の許可がなければできません。後見人が独断で売却すると、その売買は無効になります。だから慎重にならざるを得ません」

裁判所が許可を出す条件

「では、どうすれば裁判所が許可してくれますか」と悟は尋ねた。

「裁判所が審査するのは、主に三つのポイントです。一つ目は、売却の必要性と緊急性——介護費用が不足していることの具体的な証明が必要です。二つ目は、お母様が施設に入所しており、実家に戻る見込みがないこと——居住用不動産として実質的に機能していないことの確認です。三つ目は、売却がお母様の利益になること——売却後の資金が確実に介護費用に充てられることの計画です」

「その三点が揃えば許可が出ますか」

「出る可能性は高まります。ただし審査には数ヶ月かかることもあります。書類の準備と申立てを後見人である私が行いますが、悟さんにも介護の状況や収支の資料提供をお願いすることになります」

「思い通りにならない」制度の現実

悟は大城先生との会話を終えてから、司法書士の相談窓口で率直に気持ちを話した。

「後見人を付けるまでは、母の財産を自分が管理できると思っていた。でも全然違った。弁護士の先生が入って、何をするにも報告・承認が必要で、自分が締め出されたような気になる」

相談を受けた司法書士は静かに言った。「成年後見制度は本人保護のために作られた制度です。家族が財産を自由に動かせないようにすることで、本人の資産が守られる側面があります。ただ、そのために家族が息苦しく感じることは多い。これは制度の設計上の課題として議論されています」

「先に動く」という最大の対策

「母がまだ元気なうちに、何かできることはありましたか」と悟は聞いた。

「任意後見制度があります。判断能力があるうちに、信頼できる人(長男の悟さんなど)を後見人として指定する『任意後見契約』を公正証書で締結しておけば、認知症になった後も家族が後見人として動けました。法定後見とは異なり、家族の意向が反映されやすい仕組みです」

「母が元気だったころに、そういう話を知っていれば……」

「それが終活の本質です。健康なうちに意思を法的に残しておくこと——それが、家族を守る最大の備えになります」

四ヶ月後、家庭裁判所の許可が下り、実家の売却が実現した。大城先生の誠実な手続きによって、資金は確実に光子の介護費用に充てられた。「制度に不満はあった。でも母のお金は守られた」と悟は言った。それもまた、成年後見制度の一つの答えだ。

学びのボックス:成年後見制度と居住用不動産売却のポイント


成年後見人の基本的な役割判断能力が不十分な本人(被後見人)の財産管理と身上監護を行う法定代理人。家庭裁判所が選任し、その監督下で職務を行う。家族が申立てても弁護士や司法書士が選任されることが多い。
居住用不動産の売却に裁判所許可が必要な理由本人の生活基盤(居住用不動産)を守るため、後見人が居住用不動産を売却・担保設定するには家庭裁判所の許可が必要(民法859条の3)。許可なしの売却は無効になる。
家庭裁判所が許可を判断する基準①本人の介護費用の必要性・緊急性、②施設入所など居住用不動産が不要になった事情、③売却が本人の利益になるか——を総合的に審査する。単に「お金が必要」だけでは許可されないこともある。
後見制度の「家族の思い通りにならない」現実後見人は家族の代理人ではなく、本人の利益を守る義務を負う。家族の希望(節税・資産整理など)が本人の利益と一致しない場合、後見人はこれを拒否する。
任意後見制度という生前対策判断能力があるうちに、信頼できる人(家族・専門家)を後見人として指定する「任意後見契約」を公正証書で締結できる(任意後見契約法)。法定後見より家族の意向が反映されやすい。

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