『認知症の相続人』がいる分割協議の停滞
重度認知症の相続人のために成年後見人を選任し、半年以上かかる実務の壁
田村敏彦は、父の四十九日を終えたころ、兄弟三人での遺産分割協議を切り出した。長男の敏彦、次男の和男、三男の隆三。三人で実家の土地建物と預貯金をどう分けるか、話し合いを始めようとした矢先、敏彦は重大な事実に直面した。次男の和男が、数年前から進行していた認知症のために、施設に入所しており、意思疎通がほとんどできない状態になっていたのだ。長男である敏彦も、和男の病状がここまで進んでいるとは、実際に施設を訪ねるまで正確には把握できていなかった。
敏彦は当初、「和男の分は、家族である自分たちで話し合って決めればいいだろう」と軽く考えていた。しかし司法書士に相談すると、そう単純にはいかないことを知らされた。「遺産分割協議は、相続人全員が判断能力を持って参加し、合意することが前提です。和男さんのように意思表示が難しい状態にある方がいる場合、他の相続人だけで話し合って決めた内容は、法的に無効になります」。司法書士はそう説明した。
「和男さんのために、成年後見人を選任する必要があります。家庭裁判所に後見開始の審判を申し立て、後見人が選任されて初めて、その後見人が和男さんに代わって遺産分割協議に参加できるようになります」。敏彦はその話を聞いて、頭を抱えた。実家の売却や名義変更を進めたい気持ちが焦る一方で、後見人の選任にはそれなりの時間がかかると聞かされたからだ。しかも、選任された後見人は必ずしも家族が務められるとは限らず、家庭裁判所の判断で弁護士や司法書士などの専門職が選ばれることも多いと聞き、敏彦はさらに驚いた。
司法書士によれば、後見開始の申立てには、医師の診断書や本人の財産状況を示す資料など、多くの書類を準備する必要がある。加えて、家庭裁判所は本人の判断能力を慎重に見極めるため、医師による鑑定が行われることも多く、申立てから後見人選任までに数か月かかることも珍しくないという。実際、敏彦たちのケースでも、申立てから審判が下りるまで半年以上を要した。診断書の取得だけでも、施設の担当医のスケジュール調整に時間がかかり、思うように手続きが進まない時期が続いた。
その間、実家は誰も住まないまま放置され、固定資産税だけが発生し続けた。隆三は「早く売却して現金化したいのに」と苛立ちを隠せなかったが、敏彦は「和男の権利を守るために必要な手続きだから」と、根気強く説得を続けた。選任された後見人は、地元の司法書士が務めることになり、和男の利益を代弁する立場として、遺産分割協議に正式に加わることになった。
後見人は、和男の法定相続分をきちんと確保する形での分割案を提示し、敏彦と隆三もこれに同意した。後見人が関与したことで、和男の取り分は施設の費用や将来の生活費に充てられる預貯金として、後見制度のもとで適切に管理されることになった。ようやく遺産分割協議書が完成し、実家の売却と名義変更の手続きも動き出した。
この一連の経験を通じて敏彦は、相続人の中に判断能力を欠く人がいる場合、家族間の話し合いだけでは前に進めない現実の重さを痛感した。半年以上の空白期間を経て、ようやく和男の権利も含めた形で、父の遺産を三人で分け合うことができたのだった。売却が完了した後、敏彦は月に一度、和男の施設を訪ね、後見人から届く収支報告を確認しながら、兄として和男の暮らしを見守り続けている。もっと早く父の判断能力が確かなうちに、遺言書を作成してもらっていれば、これほどの時間はかからなかったのではないかと、敏彦は今でも考えることがある。
学びのボックス
| 判断能力を欠く相続人がいる場合 | 遺産分割協議は相続人全員が判断能力を持って合意することが前提で、判断能力を欠く相続人を除いた協議は無効になる。 |
| 成年後見制度の活用 | 判断能力が不十分な相続人のために家庭裁判所へ後見開始の審判を申し立て、選任された成年後見人が本人に代わって協議に参加する。 |
| 申立てに必要な書類 | 医師の診断書、本人の財産状況を示す資料など多くの書類が必要で、判断能力の程度によっては医師の鑑定が実施されることもある。 |
| 選任までにかかる期間 | 申立てから後見人選任の審判が下りるまで、数か月から半年以上かかることも珍しくなく、その間は遺産分割協議を進められない。 |
| 後見人が選ばれる範囲 | 家族が後見人になれるとは限らず、家庭裁判所の判断で弁護士や司法書士などの専門職が選任されるケースも多い。 |
