遺産分割の『10年ルール』と期間制限
「やっと兄と話し合える状況になりました。ところで先生、今から特別受益の主張はできますか」
司法書士の松岡先生の前に座った次女の高木澄江(五十二歳)は、そう切り出した。母・高木和子が他界したのは十一年前のことだ。残された遺産は実家の土地・建物と銀行預金合計で約三千万円。しかし長男の邦彦(五十五歳)が「今は分けたくない」と言い続け、協議は一度も始まらないまま十一年が経っていた。
「特別受益というのは、邦彦が二十年前に実家から300万円の援助を受けて自宅を購入したことです。その分を差し引いて計算してほしいんです」
松岡先生は表情を変えずに、一枚の資料を取り出した。「澄江さん、少し難しいお話をしなければなりません」
相続から10年が過ぎると何が変わるか
「2023年4月に施行された改正民法に、遺産分割に関する重要なルール変更がありました。相続開始から10年が経過した後に行う遺産分割では、特別受益と寄与分の主張が原則として認められなくなります(改正民法九〇四条の三)」
「つまり……」と澄江は眉をひそめた。
「お母様が亡くなられてから十一年が経過しています。今から遺産分割を行う場合、邦彦さんへの300万円の援助を特別受益として主張し、その分を差し引いた計算をすることは、原則として認められません。法定相続分澄江さんと邦彦さんそれぞれ二分の一での分割が基準になります」
澄江は言葉を失った。「十年、邦彦が先延ばしにしていたせいで、こんなことになるんですか」
「残念ながら、放置した時間が長くなるほど、請求できる内容が限定されていく——それが今回の改正の趣旨です」
例外はないのか
「全員が合意すれば、特別受益を考慮した分割もできます」と松岡先生は続けた。「邦彦さんが自分から『300万円の援助分は差し引いて計算してほしい』と同意すれば、従来通りの計算で協議できます。しかし相手が同意しない場合は、法定相続分が基準になります」
「邦彦が同意するはずがない。自分に有利なことだから、向こうが拒否したままだと私は泣き寝入りですか」
「法的にはそうなります。ただし、寄与分については澄江さん側の主張も同様に制限されます。もし澄江さんが長年にわたってお母様の介護をしていたならば、その貢献に基づく寄与分の主張も、原則として十年経過後は認められません」
施行日との微妙な関係
「ただ一点、確認が必要です」と松岡先生は資料を指した。「この改正法の施行日は2023年4月1日です。施行前に相続が開始していた案件については、施行日から十年、または相続開始から十年のいずれか遅い日が期限となります。お母様が亡くなられたのは十一年前ですが、施行日基準では2033年4月1日が期限になります」
「つまり、まだ特別受益の主張ができる可能性があるということですか」
「施行日から起算した期限2033年4月1日が、相続開始から十年の期限より後になりますから、その日までは特別受益の主張ができます。今から動けば、まだ間に合います」
澄江は椅子の背もたれから体を起こした。「では、急いで協議を進めないといけませんね」
「そうです。放置する時間が残っていないと思ってください。相続登記の義務化とも絡む問題ですから、今すぐ動くことが最善です」
「放置」がペナルティになる時代
澄江は松岡先生に調停の申立てを依頼した。邦彦との直接交渉ではなく、家庭裁判所の調停委員を交えた場で特別受益を主張し、合意を目指す方針だ。
「十年放置した邦彦が悪いのに、私が損をするのはおかしい」と澄江はやりきれない気持ちを口にした。
「おっしゃる通りです。ただ法律は、先延ばしにした全員に等しくペナルティを与えます」と松岡先生は言った。「だからこそ、相続が発生したらすぐに動くことが大切なんです。放置は相続人全員のリスクになります」
遺産分割の十年ルールは、長期放置に対する法律の明確な警告だ。動けるうちに動く——それが、自分の権利を守る唯一の方法だ。
学びのボックス:遺産分割10年ルールのポイント
| 改正の背景 | 相続開始から長期間が経過すると、特別受益・寄与分の主張が複雑化して協議が難航しやすい。2023年施行の改正民法は「10年を超えた遺産分割には法定相続分での分割を原則とする」制度を導入した。 |
| 10年ルールの内容 | 相続開始から10年が経過した後に行う遺産分割では、特別受益(生前贈与など)と寄与分(介護貢献など)の主張が原則として認められなくなる(改正民法904条の3)。法定相続分での分割が基本になる。 |
| 例外:全員合意があれば主張可能 | 相続人全員が合意すれば、10年経過後でも特別受益・寄与分を考慮した分割が可能。しかし全員合意が得られない場合は、法定相続分が基準になる。 |
| 施行日(2023年4月1日)との関係 | 改正法の施行日は2023年4月1日。施行前に相続が開始した案件でも、施行日から10年または相続開始から10年のいずれか遅い日が期限となる。多くの既存案件に影響がある。 |
| 放置のリスクと早期対応の重要性 | 長期放置すると特別受益・寄与分の主張権が失われるだけでなく、相続登記義務化(2024年)との関係でも二重のリスクが生じる。相続発生後はできる限り早く専門家に相談することが重要。 |
