財産をもらいすぎた『特別受益者』の逆襲
「あなたは十五年前に、お父さんから二千万円も住宅購入の援助を受けたでしょう。その分は遺産から差し引かれるべきよ」
次女の藤田奈緒(四十九歳)が遺産分割協議の場でそう言ったとき、長男の藤田浩一(五十二歳)は覚悟していた。
浩一は十五年前、自宅購入の際に父・藤田武夫から二千万円を援助してもらっていた。法律上これは「特別受益」と呼ばれ、相続の場では不利に働く。残された遺産(現金・不動産合計で四千万円)を三人の子で分ける際、浩一の取り分は二千万円分だけ減らされるはずだった。
しかし浩一は静かに、一枚の封書を取り出した。「父の遺言書を持ってきました」
遺言書の中の「一文」
公証役場で作成された公正証書遺言を司法書士の鈴木先生が読み上げた。財産の分配に続いて、付言事項の手前にこう記されていた。
「長男・浩一が生前に受けた住宅購入資金の援助については、民法九〇三条三項に基づき、持ち戻しを免除する。この援助は浩一への格別の思いによるものであり、相続の計算に含めないことを希望する」
奈緒は目を丸くした。「こんな文章で、法律が変わるの?」
鈴木先生は答えた。「変わります。民法九〇三条三項は、被相続人が特別受益の持ち戻しを免除する意思を示した場合、その意思に従うと定めています。お父様の遺言書にこの意思が明記されている以上、浩一さんの二千万円の援助は相続計算から除外されます」
「みなし相続財産」の計算が変わる
持ち戻し計算がない場合の遺産は四千万円。三人で分ければ一人あたり約千三百万円だ。
持ち戻し計算がある場合は、遺産四千万円に浩一の特別受益二千万円を加えた六千万円が「みなし相続財産」となり、各自の法定相続分は二千万円。浩一はすでに二千万円を受け取っているから、追加の取り分はゼロになるはずだった。
しかし持ち戻し免除が適用されると、計算は「遺産四千万円を三等分」に戻る。浩一は援助分とは別に約千三百万円の遺産を受け取れる。
「不公平じゃないですか!」と奈緒は声を上げた。
遺留分は守られる
鈴木先生は落ち着いて続けた。「ただし、持ち戻し免除には限界があります。お父様の意思があっても、奈緒さんや三男の孝則さんの遺留分を侵害することはできません」
奈緒の遺留分は、法定相続分(三分の一)のさらに半分——遺産全体の六分の一、持ち戻し免除の財産をふくめて計算した遺産全体の六分の一、つまり1000万円だ。実際に奈緒が受け取る約千三百万円はこれを上回っているため、遺留分侵害は生じない。
「結果として三人とも約千三百万円ずつ受け取ることができます。不公平に見えるかもしれませんが、浩一さんへの援助をどう扱うかはお父様が決める権利を持っていました」
「父の意思」という最後の決定権
協議は沈黙で終わった。奈緒も孝則も、父の言葉に反論する言葉を持たなかった。
浩一は帰り道、父が遺言書を作った理由を思い返した。「浩一、家族を守りなさい。それがお前への贈り物だ」——生前に言われたその言葉が、遺言書という形で力を持っていた。
特別受益の持ち戻し免除は、親が子へ向けた「不公平を公平にする」意思の表れだ。その意思を遺言書に残すことで、法律の原則を親の愛情で書き換えることができる。
学びのボックス:特別受益と持ち戻し免除のポイント
| 特別受益とは | 相続人が被相続人から生前贈与・遺贈などで受けた利益(住宅購入資金の援助・学費など)。遺産分割の際に、この受益分を相続分から差し引く「持ち戻し計算」が行われる(民法903条)。 |
| 持ち戻し計算の仕組み | 相続財産に特別受益を加算した「みなし相続財産」を基準に各人の相続分を算出し、特別受益者はその分だけ実際に受け取れる遺産が減る。 |
| 持ち戻し免除とは | 被相続人(親)が「特別受益を持ち戻さなくてよい」と意思表示することで、持ち戻し計算を排除できる(民法903条3項)。遺言書への明記が最も確実。 |
| 遺留分との関係 | 持ち戻し免除があっても、他の相続人の遺留分を侵害することはできない。遺留分侵害額請求が来た場合はその分は支払う必要があり、免除は遺留分を超えた部分にしか効力が及ばない。 |
| 婚姻20年以上の配偶者への特例 | 2019年施行の改正民法により、婚姻20年以上の夫婦間で居住用不動産を贈与・遺贈した場合は、持ち戻し免除の意思表示があったものと推定される(民法903条4項)。 |
