障がいを持つ息子のための『福祉信託』
「私がいなくなった後、この子はどうなるんだろう」
その不安は、松本幸子(七十三歳)が毎晩眠れなくなる理由だった。
長男の翔太(四十四歳)は、幼いころから知的障がいがある。日常生活には大きな支障はないが、複雑な手続きや金銭管理は一人ではこなせない。夫は十年前に他界しており、次男の浩一(四十一歳)は家庭を持ち遠方に住んでいる。
幸子には預金が三千万円ほどある。翔太がグループホームに住み続け、毎月の生活費が確保されれば、生きていける——そのことは分かっている。しかし幸子が死んだとき、その財産が翔太の手元に一度に渡ってしまえば、管理できないうちに消えてしまうかもしれない。
「遺言書だけでは足りない」
幸子が司法書士の長岡先生に相談したのは、翔太の将来設計について書いた本を読んだ翌週のことだった。
「遺言書でお金を翔太さんに相続させれば、とりあえず財産は渡ります。でもそれだけでは、翔太さんが自由にお金を使えてしまう。計画的に毎月支給する仕組みにはなりません」
長岡先生が提案したのは「福祉信託(障害者信託)」だ。財産を信頼できる受託者に預け、委託者があらかじめ設定したルールに従って受益者(翔太)に定期的に給付する仕組みだ。幸子が亡くなった後も、その仕組みは動き続ける。
信託の設計——誰に託すか
「受託者は誰にすればいいですか」と幸子は尋ねた。
「大きく二つの選択肢があります。一つは信託銀行などの専門機関(商事信託)に委ねること。もう一つは、浩一さんなど信頼できる家族に受託者になってもらう民事信託です」
信託銀行は安定性と専門性が高い反面、手数料がかかり、少額の財産には対応しないケースもある。民事信託は柔軟に設計できるが、受託者となる浩一への負担と責任が大きくなる。
幸子は長男の浩一と相談した。浩一は「できる限りのことはしたいが、判断に迷う場面は専門家に相談できる体制が欲しい」と言った。最終的に、浩一を受託者としつつ、専門家(司法書士)が「信託監督人」として浩一をサポートする民事信託の形を選んだ。
月々十五万円の「安心」を設計する
信託契約の内容は丁寧に設計された。幸子の死後、信託財産(預金二千五百万円)から毎月十五万円を翔太の口座に振り込む。グループホームの費用・医療費の支払いは浩一が確認して支出する。残余財産は翔太の死後に社会福祉法人へ寄附する旨も盛り込んだ。
「財産管理と身上監護は別です」と長岡先生は補足した。「信託はお金の流れを管理しますが、翔太さんの入院手続きや施設契約など、生活に関わる決定は後見人が必要です。将来的には成年後見制度も活用することをお勧めします」
仕組みを作ることが、愛情の形
信託契約が完成した日、幸子はグループホームに翔太を訪ねた。
夕食を一緒に食べながら、翔太は「お母さん、また来てね」と笑った。幸子はその笑顔を見ながら、胸のつかえが少し軽くなったことに気づいた。
「翔太が安心して生きていける仕組みを、ちゃんと作れた」
親なき後問題に、完全な答えはない。しかし福祉信託という「器」を早めに用意することで、親は安心して逝ける日を迎えられる。大切なのは、動けるうちに動くことだ。
学びのボックス:福祉信託のポイント
| 福祉信託(障害者信託)とは | 財産を信頼できる受託者(親族・信託銀行・NPO等)に託し、障がいのある受益者の生活費・医療費・福祉サービス費などを継続的に給付する仕組み。委託者(親)の死後も機能し続ける。 |
| 遺言代用信託との違い | 遺言代用信託は死亡時に財産を移転するもの。福祉信託は生前から設定でき、委託者の生存中から受益者への給付を開始することもできる。より細かい給付条件の設定が可能。 |
| 受託者の選び方 | 受託者は信託銀行・信託会社(商事信託)または信頼できる親族・NPO(民事信託)から選ぶ。信託銀行は安全性が高い反面コストがかかる。民事信託は柔軟だが受託者の負担・リスクが大きい。 |
| 成年後見制度との組み合わせ | 信託は財産管理を担うが、本人の身上監護(医療同意・施設入所の手続き等)は後見人が必要。福祉信託と成年後見制度を組み合わせて使うことが多い。 |
| 早期設計の重要性 | 委託者(親)が認知症等で判断能力を失うと信託契約の締結が困難になる。元気なうちに弁護士・司法書士・信託会社と連携して設計することが不可欠。 |
