認知症になる前にやっておくべきこと
宮本和子(68歳)は、夫が認知症と診断されたとき、自分も将来同じ状況になるかもしれないと強く感じた。夫の場合、症状が進んでから銀行口座が凍結され、施設の入居費用を引き出すのに家族全員が奔走した。本人の意思を確認することもできないまま、手続きだけが積み重なっていった。あの苦労を子どもたちには経験させたくない。そう思った和子は、まだ元気なうちに動こうと決めた。
和子は専門家のもとを訪れ、認知症になる前にできる備えについて相談した。担当者が教えてくれた選択肢は、大きく三つあった。
一つ目は「任意後見制度」だ。判断能力があるうちに、信頼できる人(任意後見人)を選んで契約を結んでおく制度だ。認知症などで判断能力が低下した後、家庭裁判所が任意後見監督人を選任することで、任意後見人が財産管理や法律行為を代行できるようになる。法定後見と違い、自分で後見人を選べる点が大きなメリットだ。効力が発生するのは判断能力が低下してからになるため、それまでの期間は「財産管理委任契約」と組み合わせることが多い。
二つ目は「家族信託」だ。自分の財産を信頼できる家族(受託者)に託し、自分(受益者)のために管理・運用してもらう仕組みだ。認知症になる前から効力を発揮させることができ、口座凍結のリスクを回避できる。不動産の売却や管理も受託者の権限で行えるため、柔軟な財産管理が可能だ。設計・契約にかかる専門家報酬は信託財産の価額によるが数十万円程度が目安で、生前から死後までを一貫してカバーできる点が強みだ。
三つ目は「財産管理委任契約」だ。判断能力があるうちから効力を持たせられる委任契約で、日常的な財産管理を第三者に任せることができる。ただし、委任者が亡くなると契約は終了し、法的保護力も限定的だ。単独で使うより、任意後見制度と組み合わせることで「元気なうち→判断能力低下後」をシームレスにカバーできる。
「どれを選べばいいですか」と和子は聞いた。「家族が信頼できる場合は、家族信託が最も柔軟で使いやすいです。費用を抑えたい場合は任意後見契約と財産管理委任契約の組み合わせが現実的です。いずれにしても、判断能力があるうちに動くことが絶対条件です。認知症が進んでからでは、これらの制度を利用できなくなります」
家族信託の契約書は公正証書で作成することが一般的で、公証役場での手続きが必要だ。信託財産の種類や管理方針を具体的に定めることで、受託者が迷わず動けるようになる。後から内容を変更したい場合も、判断能力があるうちであれば変更手続きが可能だ。早めに専門家と設計しておくことが、将来の安心につながる。
和子は長男の誠(42歳)と話し合い、家族信託の契約を結ぶことにした。自宅と預貯金の一部を信託財産とし、誠が受託者として管理する形だ。公証役場での手続きを経て、契約が成立した。「これで安心できる」と和子は思った。夫のときの経験が、自分の備えへの行動を後押しした。自分が動けなくなったとき、子どもたちが困らないように——その一心で、和子は手続きを進めた。
認知症になる前の備えは、本人だけでなく家族全員を守ることにつながる。任意後見・家族信託・財産管理委任契約——それぞれの特徴を理解した上で、自分の状況に合った方法を早めに選ぶことが、安心な老後への第一歩だ。「まだ元気だから大丈夫」という思い込みが、最大のリスクになることを忘れないでほしい。
この記事で学べること
認知症になる前の備えとして「任意後見制度」「家族信託」「財産管理委任契約」の3つがあります。家族信託は口座凍結を防ぎ柔軟な管理が可能。いずれも判断能力があるうちに手続きすることが絶対条件です。
