遺産を一切与えない『相続人の廃除』
「あの子には一円も渡したくない。親としてそう思うのは、おかしいですか」
八十歳の横山貞雄が弁護士の菊地先生の前でそう言ったとき、その目には怒りよりも深い疲れがあった。
次男の横山龍也(五十三歳)は長年、素行が荒れていた。十年前から貞雄の通帳を無断で持ち出して預金を引き出し、それを指摘すると怒鳴りつけ、一度は腕をつかんで押し倒した。長男の誠一(五十六歳)に相談し、警察に届けたこともあったが、「家族のことだから」と穏便に済ませてきた。しかし龍也の行為は止まらなかった。
「遺言で龍也に相続させないと書けばいいと思っていたんですが、遺留分というものがあると聞きました。それでもあの子を外す方法はありますか」
「廃除」という制度
菊地先生は静かに答えた。「あります。『推定相続人の廃除』という制度です(民法八九二条)。家庭裁判所に申立て、審判が認められれば龍也さんの相続権を剥奪できます。廃除が認められると、遺留分も含めて一切の相続権を失います」
「それは簡単にできるんですか」
「いいえ、ハードルは極めて高い。裁判所が廃除を認めるには、被相続人に対する『虐待』『重大な侮辱』『著しい非行』のいずれかが必要です。単に親子関係が悪い、素行が悪い、というだけでは認められません」
「では、龍也のしてきたことは当てはまりますか」
「暴力行為、通帳からの無断引き出し、怒鳴りつけ——これらは虐待・著しい非行に該当する可能性があります。ただし、証拠が重要です。警察への届出記録、医師の診断書、銀行の入出金記録、証人の陳述——これらを揃えることが申立ての前提になります」
証拠を集める半年
菊地先生と一緒に証拠の整理を始めた。警察への相談記録(届出はしていないが窓口での相談履歴)、銀行口座の不審な引き出し記録(五年分・合計三百万円超)、かかりつけ医の診察記録(転倒による打撲で受診した記録)、長男・誠一の証言書。
半年かけて資料が揃い、貞雄は家庭裁判所に「推定相続人の廃除」の審判申立書を提出した。
審判は四ヶ月かかった。家庭裁判所の調査官が双方から事情を聴取し、龍也は「父親が大げさに言っているだけ」と反論した。しかし預金の無断引き出しの証拠と診察記録は動かしがたかった。
「著しい非行および虐待が認められる」として、龍也の廃除審判が確定した。
遺言による廃除という備え
「生前廃除ができたとして、もし私が亡くなる前に審判が出なかったら、どうなっていましたか」と貞雄は菊地先生に聞いた。
「その場合は『遺言廃除』という方法があります。遺言書に『龍也を廃除する』と明記しておき、私が亡くなった後に遺言執行者が家庭裁判所に廃除の申立てをします。審判は死後に行われますが、認められれば同様に相続権・遺留分が失われます」
「生前に申立てができない場合や、急に亡くなってしまった場合への備えとして、遺言廃除を遺言書に書いておくことも有効です」
貞雄は念のため、遺言書にも「龍也を廃除する」という条項を加えた。二重の備えだ。
廃除は「最後の手段」
廃除の審判が確定した後、龍也からの接触はなくなった。貞雄は少し気持ちが楽になったと菊地先生に伝えた。
「廃除は、法律が用意した最後の手段です」と菊地先生は言った。「親子関係を法的に断ち切ることですから、裁判所は慎重に判断します。だからこそ、証拠の積み重ねが何より大切でした」
相続人の廃除は、親が子に「遺産を渡さない」と意思表示できる唯一の法的手段だ。しかしその道は証拠と時間を要する険しい道でもある。早期に専門家に相談し、記録を残し続けることが、この制度を使うための最大の準備だ。
学びのボックス:相続人の廃除のポイント
| 推定相続人の廃除とは | 被相続人(将来亡くなる人)が、遺留分を持つ推定相続人(配偶者・子・直系尊属)の相続権を家庭裁判所の審判によって剥奪する制度(民法892条)。廃除が認められると遺留分も失う。 |
| 廃除が認められる要件 | 「被相続人に対する虐待」「重大な侮辱」「著しい非行」のいずれかが必要(民法892条)。単なる不仲・素行不良・借金程度では認められず、極めて厳しいハードルがある。 |
| 廃除の方法は2つ | ①生前廃除:被相続人が生存中に家庭裁判所に審判を申立てる。②遺言廃除:遺言書に「○○を廃除する」と記載し、死後に遺言執行者が家庭裁判所に申立てる。 |
| 廃除の取消しも可能 | 廃除した後も、被相続人が「廃除を取消したい」と思えば、家庭裁判所に取消しを申立てることができる(民法894条)。生前廃除・遺言廃除のどちらも取消し可能。 |
| 廃除と相続欠格の違い | 廃除は被相続人の意思によって相続権を剥奪する制度。相続欠格(民法891条)は、相続人が殺人・詐欺・遺言書偽造などの行為をした場合に自動的に相続権を失う制度で、意思表示は不要。 |
