海外口座の遺産:プロでも難航する手続き
「海外の口座なんて、どうせ大した金額じゃないから後回しでいい」
そう言っていた長男の中野慎介(五十三歳)が、その判断を深く後悔することになったのは、相続開始から半年後のことだった。
元商社マンだった父・中野武夫は、若いころニューヨーク駐在の経験がある。退職後もアメリカの取引銀行に口座を残しており、残高は約二万ドル(約三百万円)。日本の相続手続きが一段落したあとで処理しようと考えていた慎介に、現実は甘くなかった。
「この書類は受け付けられません」
日本での遺産分割協議書と相続証明書類を揃え、慎介は父の口座があるニューヨーク州の銀行に問い合わせた。
銀行の担当者の返答は簡潔だった。「お父様の資産を移転するには、ニューヨーク州の裁判所が発行する書類が必要です。日本の書類では対応できません」
日本の遺産分割協議書がそのまま使えない——慎介は初めてその現実に直面した。
国際相続専門の弁護士・林先生に連絡すると、先生は静かに言った。「ニューヨーク州では、遺産の相続権を法的に確定させるために『プロベート』という裁判手続きが必要です。裁判所が遺言の有効性を確認し、財産を誰に引き渡すかを認定して初めて、銀行は動いてくれます」
プロベートという「もう一つの相続」
プロベートとは、英米法系の国で行われる遺産整理の裁判手続きだ。日本でいえば相続人確定・遺産分割・名義変更を裁判所が一括して監督するイメージに近い。
「費用と時間はどれくらいかかりますか」
「ニューヨーク州の場合、現地の弁護士費用として遺産額の三~五%、裁判所費用、翻訳費用などを合わせると、三十~五十万円程度になるケースが多い。期間は順調でも六ヶ月、書類に不備があれば一年以上かかることもあります」
三百万円の口座を引き出すために、数十万円の費用と一年近い時間——慎介の頭の中で数字が複雑に絡み合った。
日本の申告期限は待ってくれない
さらに林先生は重要な点を指摘した。
「日本の相続税申告の期限は、相続開始を知った日の翌日から十ヶ月です。プロベートに時間がかかっても、この期限は延びません。海外資産の金額が確定していなくても、概算で申告し、後から修正申告する対応が必要です」
慎介は急いで税理士に連絡し、米国口座の評価額を概算で申告に含める手続きを行った。プロベートの完了を待っていたら、申告期限を過ぎていたかもしれなかった。
生前にできる「プロベート回避」
十一ヶ月後、プロベートが完了し、慎介は父の口座から資金を引き出すことができた。費用と時間を合計すると、実質的な手取りは当初残高の七割程度だった。
「父が生前に受取人指定(TOD登録)をしておいてくれれば、プロベートは不要でした」と林先生は言った。「米国の銀行口座は、あらかじめ受取人を指定しておくことで、死亡時に直接その人に資産が移転します。リビングトラスト(生前信託)を活用する方法もあります」
慎介はため息をついた。「知っていれば、父に勧めていたのに」
海外資産は「後回し」にできない相続の難題だ。保有しているなら生前に専門家と対策を講じ、相続が発生したら即座に国際相続の専門家チームを組成する——それが、国境を越えた遺産を守るための唯一の方法だ。
学びのボックス:海外遺産とプロベートのポイント
| プロベートとは | 米国・英国など英米法系の国で行われる、故人の遺産を法的に確定させる裁判手続き。遺言書の有効性確認・債務の精算・財産の分配を裁判所が監督する。数ヶ月〜数年かかることもある。 |
| 日本の遺産分割協議書は使えない | 米国の金融機関は、日本の遺産分割協議書や相続証明書をそのまま受け付けない。現地の裁判所が発行する「レターズ・テスタメンタリー」等の書類が必要になる。 |
| プロベート回避の生前対策 | ①受取人指定(TOD/POD登録):金融口座に受取人を指定しておくとプロベートを経ずに直接移転できる。②生前信託(リビングトラスト):信託に財産を移しておくことでプロベートを回避できる。 |
| 日本での相続税申告との関係 | 海外の金融資産も日本の相続税の対象。プロベートに時間がかかっても、日本側の申告期限(10ヶ月)は延びない。期限内に概算申告・修正申告で対応することが必要。 |
| 国際相続専門家の活用 | 海外資産の相続は、日本側の税理士・弁護士と現地の弁護士(アトーニー)・財務アドバイザーが連携して対応する必要がある。早期に専門家チームを組成することが最重要。 |
