『認知症の親』が作成した公正証書遺言の無効バトル[相続のお話]

『認知症の親』が作成した公正証書遺言の無効バトル

【遺言能力の有無と判断基準】要介護3の母の公正証書遺言を、長谷川式スケール等の資料をもとに無効確認訴訟で争う

田村由紀子は、母の四十九日を終えたころ、思いがけない事実を知らされた。同居して介護をしていた兄の一郎から、「実は母さんが公正証書遺言を残していて、財産はすべて僕に譲るという内容になっている」と告げられたのだ。由紀子は言葉を失った。母は晩年、要介護三の認定を受け、認知症の症状もかなり進んでいたはずだったからだ。長年、由紀子も定期的に実家を訪れていたが、最後の数年は母が自分の名前すらあやふやになる場面もあったことを覚えていた。

由紀子は弁護士に相談することにした。「遺言を作成するには、遺言者にその内容を理解し、判断する能力、いわゆる遺言能力が必要とされています。認知症だからといって、直ちに遺言が無効になるわけではありませんが、症状の程度によっては、遺言能力が否定される場合があります」。弁護士はそう説明した。

「遺言能力の有無は、遺言作成当時の医療記録、要介護認定の資料、そして長谷川式簡易知能評価スケールなどの認知機能検査の結果を総合的に見て判断されます。長谷川式スケールは三十点満点で、一般的に二十点以下だと認知症が疑われる水準とされていますが、これだけで機械的に判断が決まるわけではなく、遺言の内容の複雑さや、遺言者の意思としての合理性なども考慮されます」。由紀子は、単に点数だけで白黒つく話ではないことを理解した。

由紀子は、母のカルテの開示を病院に求め、遺言作成時期の前後に受けていた認知機能検査の結果を取り寄せた。記録によれば、遺言が作成された時期、母の長谷川式スケールの点数は十点台にまで落ち込んでおり、医師の所見にも「見当識障害が顕著」という記載があった。カルテには、日付や自分がいる場所を正しく答えられなかった様子も具体的に記録されており、由紀子はその内容を読むたびに胸が締め付けられる思いだった。この結果を見た弁護士は、「かなり重度の認知機能低下があったと推測される状況です。公正証書遺言であっても、無効と判断される可能性は十分にあります」との見解を示した。

一方で、一郎側の弁護士からは、「公正証書遺言は公証人が関与して作成されるものであり、公証人が本人に問答形式で意思確認を行っている以上、簡単には無効にならない」という反論もなされた。由紀子は、公正証書だからといって絶対的な効力があるわけではないと知り、裁判を通じてしっかりと事実を争う決意を固めた。

由紀子は遺言無効確認の訴えを提起し、医療記録や介護記録、遺言作成時に立ち会った証人の証言などを積み重ねながら、母の遺言能力が欠如していたことを主張した。審理の結果、裁判所は、遺言作成時の母の認知機能の状態や、遺言の内容が一方的に一郎に偏っていた経緯なども踏まえ、遺言能力を欠いていたと認め、遺言を無効とする判断を下した。判決文には、公正証書遺言であっても、作成時の実質的な意思能力の有無が優先して判断されるべきという趣旨も示されていた。

この判決を受け、遺産は改めて法定相続分に基づいて分割されることになった。この経験を通じて由紀子は、公正証書という形式が整っていても、作成当時の遺言能力が争われる余地は十分にあることを学んだ。認知症の進行度合いを示す客観的な資料をきちんと残しておくことが、こうした争いを未然に防ぐ、あるいは正しく解決する鍵になるのだと、由紀子は身をもって理解した。裁判を終えた後、由紀子と一郎は改めて話し合いの場を持ち、母の介護を一郎が長年担ってきた事実については、由紀子も素直に感謝を伝えるようにしている。

学びのボックス

遺言能力とは遺言者が遺言の内容を理解し判断できる能力のこと。民法上、遺言作成時にこの能力を有していることが求められる。
認知症と遺言能力の関係認知症の診断があるからといって直ちに遺言が無効になるわけではなく、症状の程度によって判断が分かれる。
長谷川式スケール等の位置づけ30点満点の認知機能検査で、一般的に20点以下は認知症が疑われる水準とされるが、点数だけで機械的に判断が決まるわけではない。
総合的な判断要素医療記録、要介護認定資料、遺言内容の複雑さ、遺言者の意思としての合理性などを総合的に考慮して遺言能力の有無が判断される。
公正証書遺言でも無効になり得る公証人が関与して作成された公正証書遺言であっても、作成当時の実質的な意思能力が欠けていたと認められれば無効となる。

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