相続放棄を選んだ理由
木下浩平(48歳)が兄・雅彦(享年54歳)の訃報を聞いたのは、出張先でのことだった。兄とは十年以上、ほとんど連絡を取っていなかった。疎遠になったきっかけも、今となってはうろ覚えだ。
葬儀を終えて数日後、見知らぬ番号から電話があった。消費者金融の担当者だった。「雅彦さんの借金について、相続人の方にご連絡しています」
浩平は凍りついた。兄に借金があるとは知らなかった。
急いで弁護士に相談すると、まず財産全体の把握を勧められた。
「相続には、プラスの財産だけでなく、借金などのマイナスの財産も含まれます。相続人はこれらをまとめて引き継ぐのが原則です。ただ、相続放棄という選択肢があります」
「相続放棄をすると、どうなりますか」
「相続人としての地位を完全に手放すことになります。プラスの財産も受け取れなくなりますが、借金も一切引き継ぎません。家庭裁判所に申し立てる必要があり、相続の開始を知った日から三ヶ月以内に手続きをしなければなりません。この三ヶ月を『熟慮期間』といいます」
「三ヶ月以内に決めないといけないんですね」
「はい。ただし、財産の調査に時間がかかる場合は、家庭裁判所に申し立てることで熟慮期間を延長できる場合があります。借金の全容がわからない段階で焦って決めるより、まず調査を進めることが大切です」
「相続放棄以外の方法はありますか」
「『限定承認』という方法もあります。プラスの財産の範囲内でのみ借金を返済し、残りは相続するという方法です。財産がプラスになるかどうか不明な場合に有効ですが、相続人全員が同意して共同で手続きする必要があり、手続きが複雑なため、実際には相続放棄を選ぶケースが多いです」
浩平は兄の財産を丁寧に調べた。預貯金はほとんどなく、不動産もない。借金の総額は預金を大幅に上回っていた。
浩平は相続放棄を決めた。兄の子どもたちも同様の判断をした。
手続きが完了した夜、浩平は兄のことを久しぶりにゆっくり思い出した。仲がよかった子どもの頃のこと。なぜ疎遠になったのか。借金を抱えて、どんな気持ちで生きていたのか。
相続放棄は、兄を切り捨てることではない。自分と自分の家族を守るための、やむを得ない選択だった。浩平はそう自分に言い聞かせながら、書類を静かにしまった。
突然の相続には、マイナスの財産が潜んでいることがある。三ヶ月という期限を知っておくだけで、いざというときに冷静に動くことができる。
この記事で学べること
相続放棄は「相続の開始を知った日から3ヶ月以内」に家庭裁判所へ申し立てる必要があります。財産調査が必要な場合は期間延長も可能です。借金がプラス財産を上回る場合は、放棄を検討しましょう。
