『家族信託』受託者の長男が先に死亡!二次受託者なき信託のパニック
伊藤隆は五十八歳。八十五歳の父・正一の実家を管理するため、三年前に家族信託を結んだ。委託者兼受益者は父、受託者は長男の隆。実家の管理や、将来の売却、施設費用の支払いを、隆が父の代わりに行える仕組みだった。父は、認知症の初期症状が出てきており、判断能力に少しずつ不安が出ていた。
その隆が、ある朝、急な病で亡くなった。誰も予想していなかった。父より先に旅立ってしまったのだ。隆の妻と子どもたちも、悲しみの中で何をすればよいか分からずにいた。葬儀を終えて落ち着いたころ、次男の翔が、信託契約書を開いた。実家の屋根の修繕や、父の施設の費用を、これから誰が手配するのか。翔は、自分が引き継げばいいと考えていた。家族だから、話し合えばすぐに決まるはずだ、という思い込みもあった。
ところが、契約書を読み進めて、翔は愕然とした。受託者が亡くなった場合の次の受託者、つまり二次受託者についての定めが、どこにも書かれていなかったのだ。契約書には、受託者は隆と書かれているだけで、後任の指定も、後任の決め方も、何も定められていない。
翔は、信託契約を作った司法書士に連絡した。司法書士は、静かに説明した。「信託財産は、隆さんご自身の相続財産とは別のものとして扱われます。隆さんの相続人の方々は、新しい受託者が決まるまで、信託財産を保管する立場になります」。そのうえで、続けた。「受託者が亡くなると、受託者としての任務は終了します。契約書に新しい受託者の定めがなければ、委託者と受益者が合意して、新しい受託者を選ぶのが原則です。今回は、委託者も受益者も、お父さまです」。翔は、少し安心した。父に了承してもらえばいいのだ。父はまだ、自分の息子が誰かは分かっているのだから。
しかし、司法書士は首を振った。「問題は、お父さまの判断能力です。新しい受託者を選ぶことに合意するには、その意味を理解できる必要があります。現在のお父さまの状態では、難しいかもしれません。医師の診断を踏まえて、判断することになります」。実際、父は、息子の死も十分に理解できず、翔の話にうなずくだけだった。
合意ができない場合は、家庭裁判所に、新しい受託者の選任を申し立てることになる。翔は、医師の診断書や戸籍謄本など、必要な書類をそろえて申立てを行った。申立書には、自分が新受託者になりたいという希望も書いた。しかし、裁判所の判断を待つ間、実家の名義は隆のまま、信託財産の預金口座も動かせなかった。施設からは費用の入金を催促する連絡が入り、父の施設費用の支払いが滞りかけ、翔は、自分の貯金から立て替えた。
数か月後、裁判所は、翔を新しい受託者に選任した。信託登記の名義も、翔に変更された。ようやく、翌月からは、父の施設費用や、実家の管理を再開できた。立て替えた費用の精算や、手続きの費用、そして長い待ち時間。契約書に二次受託者の定めが一行あれば、避けられた混乱だった。翔は、兄と契約書を見直しておけばよかったと、何度も悔やんだ。
翔は、家族信託を考えている人に、こう伝えている。信託では、受託者が先に亡くなる、あるいは判断能力を失う可能性を、必ず想定すること。二次受託者を契約書で指定し、さらに信託監督人や受益者代理人も検討すること。そして、契約を結んだ後も、定期的に見直すこと。翔は、兄が遺した契約書を見るたびに、兄のためにも、その教訓を思い出している。
学びのボックス
| 受託者の任務終了 | 受託者が死亡すると、受託者としての任務は終了する。信託財産は受託者の相続財産とは別に扱われるが、新受託者が決まるまで手続きが止まりやすい。 |
| 二次受託者の指定 | 信託契約書に、受託者が死亡・辞任・判断能力を失った場合に就任する二次(後継)受託者を、あらかじめ指定しておく。 |
| 新受託者の選び方 | 契約に定めがなければ、委託者と受益者の合意で選任するのが原則。合意できないときは、家庭裁判所に新受託者の選任を申し立てる。 |
| 判断能力のリスク | 委託者兼受益者の判断能力が低下していると、新受託者の選任への合意ができず、裁判所の手続きになり時間と費用がかかる。 |
| 設計時のチェック | 二次受託者、信託監督人、受益者代理人の指定と、契約後の定期的な見直し(受託者の年齢・健康状態の確認)を行う。 |
