『遺言執行者の権限強化』2020年改正民法で相続人の勝手な処分を無効化
野口麻衣は五十歳。八十五歳で亡くなった父と、長年、実家で同居してきた。母は十年前に他界しており、相続人は、麻衣、兄の和彦、弟の達也の三人。父は公正証書遺言を残していた。実家の土地と建物、評価額は約三千万円を麻衣に、預貯金は和彦と達也に分ける内容で、遺言執行者には、弁護士の田村さんが指定されていた。
四十九日が過ぎたころ、麻衣のもとに、不動産会社から一本の電話が入った。「達也さんから、実家の売却のご相談をいただいております」。麻衣は、耳を疑った。父を看取ったばかりの家を、他人に売られるなど、考えたくもなかった。達也は、事業の資金繰りに困っていると聞いていた。遺言の内容に不満があり、自分の相続分として、実家を売ってお金にしようとしたらしい。
麻衣は、田村さんに連絡した。田村さんは、就任したあと、すぐに三人へ、遺言の内容を知らせる通知を出していた。遺言執行者は、就任すると、遅滞なく、遺言の内容を相続人に知らせなければならない。この通知が、のちに大きな意味を持つことになる。達也も、その通知を受け取っていたはずだった。通知には、遺言のコピーも同封されていた。
田村さんは、改正民法の仕組みを説明した。遺言執行者がいるとき、相続人は、相続財産の処分など、遺言の執行を妨げる行為ができない。これに反する行為は、原則として無効になる。この規定は、二〇一八年の民法改正で明確になり、二〇一九年七月に施行されたものだ。
「ただし」と、田村さんは付け加えた。「善意の第三者には、無効を主張できません」。たとえば、達也が先に自分名義の持分の登記を済ませ、遺言を知らない買主が、登記を信じて買ってしまえば、麻衣は、実家を取り戻せないおそれがある。だから、速やかに手を打つ必要がある。
田村さんは、すぐに動いた。弁護士としての経験から、時間との勝負になることを、よく知っていた。まず、不動産会社と達也に、内容証明郵便を送った。遺言執行者がいること、実家は遺言で麻衣が取得すると定められていること、勝手な売却や賃貸は、遺言の執行を妨げる行為で、無効となることを伝えた。不動産会社は、遺言があると知って、媒介契約を取り下げた。売却の話は、契約の前の段階で止まった。
同時に、田村さんは、遺言執行者として、実家の相続登記の手続きを進めた。特定の財産を特定の相続人に相続させる遺言では、遺言執行者が、登記などの対抗要件を備えるために必要な行為ができる。つまり、麻衣一人で動くより、はるかに早く、確実に進められる。麻衣は、田村さんに言われたとおり、戸籍や住民票を準備し、数日後、実家は、麻衣の名義になった。登記簿を見た麻衣は、胸のつかえが少し取れた気がした。
達也は、さすがに引き下がった。内容証明が届いた日から、一週間もたっていなかった。「兄さんや麻衣には、ずっと迷惑をかけた」と、電話で言ってきた。麻衣は、まだ心のわだかまりはあったが、和彦とも相談し、達也の今後の生活について、話し合う場を設けることにした。
麻衣は、こう話している。父が遺言で執行者を決めておいてくれたおかげで、ここまで来られた、と。遺言があっても、執行者が動かなければ、勝手な行動を止める手段は限られる。遺言を作るときは、信頼できる遺言執行者を指定しておくこと。相続が始まったら、速やかに登記まで進めること。弁護士の報酬など、費用の負担も、あらかじめ遺言で定めておくと安心だという。
学びのボックス
| 相続人の妨害行為の禁止 | 遺言執行者がいるとき、相続人は相続財産の処分など遺言の執行を妨げる行為ができない。違反した行為は原則として無効になる。 |
| 善意の第三者に注意 | 遺言を知らない第三者が登記などを信じて取引した場合、無効を主張できないことがある。速やかな登記が重要になる。 |
| 改正の時期 | この規定は2018年の民法改正で明確になり、2019年7月に施行された。2020年4月施行の改正は、配偶者居住権などの別の内容。 |
| 遺言執行者の役割 | 就任後は遅滞なく遺言の内容を相続人に通知する。特定財産承継遺言では、登記などの対抗要件を備える行為もできる。 |
| 遺言を作るときの備え | 信頼できる執行者を指定し、報酬や費用の負担も遺言で定めておくと安心。進め方は弁護士など専門家に確認したい。 |
