『民事信託(家族信託)』の受託者の暴走を防ぐ『信託監督人』
村井美和子は八十歳を過ぎ、物忘れが目立つようになった。夫の死後ひとりで暮らす実家を、いずれ施設費用のために売ることになるかもしれない。そう考えた美和子は、長男の浩二と長女の由美に相談し、家族信託を結ぶことにした。委託者兼受益者は美和子、受託者は浩二。認知症になっても、浩二の判断で実家を売却できるようにするための仕組みだった。成年後見のように家庭裁判所の関与を受けずに済む点も、三人には魅力に思えた。
司法書士は契約書を作りながら、こう提案した。「受託者である浩二さんの権限は大きくなります。念のため、受託者を監督する信託監督人を置きませんか。美和子さんの判断力が落ちたときに、美和子さんの代わりに目を光らせる人です」。浩二は少し不満そうだった。自分が疑われているように感じたのだろう。「家族なのに、監督が必要ですか」。由美が「お母さんのためだから」と取りなし、信託監督人にはその司法書士が就くことになった。契約書には、実家を売却するときは、売却価格の根拠となる資料を添えて、事前に信託監督人へ通知し、同意を得るという条項も入れた。美和子も「みんなで決めたことなら安心だね」と、穏やかにうなずいていた。
三年後、美和子は認知症が進み、施設に入った。施設の費用がかさみ始め、浩二は信託の定めに従い、実家の売却を進めることにした。ところが浩二は、仕事の資金繰りに悩んでおり、早く現金が欲しかった。知り合いの不動産業者から「二千八百万円なら、すぐ買い取れます」と持ちかけられると、相場を詳しく調べないまま、売買契約の準備を始めてしまった。
契約の直前、浩二は信託契約に従って、売却の予定を信託監督人に連絡した。司法書士は、売却価格の根拠を尋ね、実家の固定資産税評価額や近隣の取引事例も確認した。浩二が出せたのは、買主側が出した簡単な査定だけだった。司法書士は、複数の不動産会社による査定を取るよう求めた。結果は、四千万円前後だった。
「受託者は、受益者のために、善良な管理者の注意をもって信託事務を行う義務があります。自分の事情を優先して、相場より著しく安く売ることは、その義務に反するおそれがあります」。司法書士の言葉に、浩二は黙り込み、やがて深く頭を下げた。母の財産を預かる立場の重さを、頭では分かっているつもりだったが、実感できていなかったのだ。同意がなければ売却できない仕組みになっていることを、浩二は初めて重く受け止めた。信託監督人は、受益者の権利を守るため、必要があれば受託者の行為の差止めなどを求める権限も持っている。
結局、浩二は買主に断りを入れ、複数の会社に依頼して売却先を探し直した。実家は、三か月ほどかけて、査定に見合った適正な価格で売却された。売却代金は信託財産として管理され、美和子の施設費用に充てられている。由美から「もっと早く相談してほしかった」と言われた浩二は、資金繰りの悩みも打ち明け、別の方法で乗り切ることにした。兄妹のあいだにあった小さなわだかまりも、このとき少しずつ解けていった。
由美は、母が元気なうちに契約を結べたことにも救われた思いがしていた。家族信託は、柔軟に設計できる反面、受託者の権限が強くなる。信頼できる家族であっても、判断を誤ることはある。だからこそ、信託監督人や、受益者に代わって権利を行使する受益者代理人を、契約の段階で決めておくことが、親の財産と家族の関係の両方を守るのだと、由美は今では考えている。
学びのボックス
| 受託者の義務 | 受託者は、受益者のために善良な管理者の注意をもって信託事務を行う義務(善管注意義務)や、忠実義務を負う。 |
| 信託監督人 | 受益者が受託者を監督することが難しい場合に、受益者のために受託者を監督する者。信託契約で定めておくことができる。 |
| 受益者代理人 | 受益者に代わって、受益者の権利に関する一切の行為を行う者。認知症などに備えて、あらかじめ定めておくと安心。 |
| 契約条項の工夫 | 不動産の売却時は、事前通知・根拠資料の提出・信託監督人の同意を必要とするなど、受託者の権限にチェックを組み込む。 |
| 設計時の心得 | 信頼できる家族でも判断を誤ることはある。家族信託は、権限の大きさに応じた監督の仕組みを契約の段階で決めておく。 |
