夫に先立たれた妻を守る『配偶者居住権』
「出て行ってください。この家は私が相続する予定です」
夫・三浦正男が急逝してから四十九日も過ぎないうちに、後妻の幸恵(六十八歳)はその言葉を聞いた。告げたのは、前妻との間に生まれた長男・慎一(四十五歳)だった。
幸恵と正男は十二年前に再婚した。子供はいない。正男は遺言書を残さなかった。法定相続では、配偶者の幸恵と前妻の子の慎一が、それぞれ二分の一ずつを相続する。
問題はこの家だった。神奈川県の一戸建て、時価約三千万円。幸恵の法定相続分(二分の一=一千五百万円)では、三千万円の家を「半分もらう」ことはできない。慎一が家の所有権を要求する一方、幸恵に代償金を支払う気はなかった。
■「出て行け」への法的な答え
幸恵の姪が連れてきた弁護士の高橋先生は、幸恵の話を聞いてすぐに言った。
「配偶者居住権、というものをご存じですか」
二〇二〇年四月に施行された改正民法で新たに創設された権利だ。被相続人(夫)の配偶者が、相続開始時に居住していた建物に、終身または一定期間、無償で住み続けられる——それが配偶者居住権(民法一〇二八条)だ。
「幸恵さんは相続開始時にこの家に住んでいた。配偶者である。条件は揃っています。遺産分割協議でこの権利を取得することを求めましょう」
■「居住権」と「所有権」を分ける
配偶者居住権の仕組みは、建物の「居住する権利」と「所有権」を切り分けることにある。
幸恵が配偶者居住権を取得し、慎一が負担付き所有権(居住権が設定された状態での所有権)を取得する——という形で分割できる。幸恵は家に住み続けられ、慎一は将来幸恵が亡くなった後に完全な所有権を手にする。
「評価額はどうなりますか」と幸恵は尋ねた。
「建物の時価三千万円のうち、配偶者居住権の評価額は幸恵さんの年齢と平均余命を基に計算します。六十八歳の女性の場合、統計上の平均余命は約二十二年。存続年数に応じた係数を掛けると、配偶者居住権の評価額はおよそ一千二百万円となります。慎一さんが取得する負担付き所有権は残りの一千八百万円です」
幸恵の法定相続分は一千五百万円。配偶者居住権(一千二百万円)に加え、現預金から三百万円を取得すれば、法定相続分とほぼ一致する。
■慎一との合意と登記
当初、慎一は「そんな権利は聞いたことがない」と強く反発した。しかし高橋先生が法律の内容を書面で説明し、遺産分割調停に移行する可能性を示すと、慎一は弁護士を立てて協議に応じた。
三ヶ月の交渉の末、幸恵が配偶者居住権を取得し、慎一が負担付き所有権を取得する内容で合意が成立した。
「必ず登記してください」と高橋先生は念を押した。「配偶者居住権は登記することで第三者に対抗できます。慎一さんが将来この家を売却しようとしても、登記があれば幸恵さんの居住権は守られます」
登記が完了した日、幸恵は庭の梅の木を見上げた。正男と一緒に植えた木だ。「ここにいていいんだ」——その安堵が、ようやく胸に落ちた。
配偶者居住権は、残された配偶者が「住む場所」を守るために生まれた制度だ。この権利を知っているかどうかで、人生の後半がまるで変わる。
[学びのボックス]配偶者居住権のポイント
| 配偶者居住権とは | 2020年4月施行の改正民法で創設。被相続人の配偶者が、相続開始時に居住していた建物に、終身または一定期間、無償で住み続けられる権利(民法1028条)。 |
| 成立要件 | ①被相続人の配偶者であること、②相続開始時にその建物に居住していたこと、③遺産分割・遺言・死因贈与のいずれかで配偶者居住権を取得すること。 |
| 所有権との分離 | 配偶者居住権を設定すると、建物の「居住権」と「所有権(負担付き)」が分かれる。配偶者は住み続けられ、所有権は他の相続人が取得できる。 |
| 評価額の計算 | 配偶者居住権の評価額は「建物の時価×存続年数に応じた係数」で算出。残りの所有権(負担付き所有権)の評価額は「建物時価-配偶者居住権の評価額」となる。 |
| 登記の重要性 | 配偶者居住権は登記することで第三者に対抗できる(民法1031条)。所有者が建物を第三者に売却しても、登記があれば居住権を主張できる。 |
