『死後事務委任契約』一人暮らし高齢者の最期を支える仕組み
【身寄りのない方の終活支援】葬儀・納骨・賃貸解約・遺品整理を第三者に託し、遺言・任意後見と組み合わせて運用する
佐伯千鶴は、七十八歳で一人暮らしをしている元教師だった。結婚はせず、両親も兄弟もすでに他界している。唯一の親族である甥とは、三十年以上連絡を取っていなかった。賃貸アパートで穏やかに暮らしていたが、数か月前に肺炎で入院したことをきっかけに、ある不安が頭を離れなくなった。「もし私がこのまま亡くなったら、誰が葬儀を出してくれるのだろう」。
退院後、千鶴は地元の終活セミナーに参加し、そこで司法書士の講師から、死後事務委任契約という仕組みがあることを知った。後日、千鶴は司法書士の事務所を訪ね、詳しい説明を聞いた。「身寄りのない方が亡くなると、葬儀や納骨、アパートの解約、遺品の整理、公共料金の精算など、多くの手続きが必要になります。これを生前のうちに、信頼できる第三者に託しておく契約が、死後事務委任契約です」。
千鶴は、友人に頼むことも考えたが、年齢の近い友人に負担をかけるのは気が引けた。「本来、委任契約は、委任した本人が亡くなると終了するのが原則です。そこで、この契約では、本人が亡くなった後も契約が続くという特約をあらかじめ結んでおきます」。司法書士はそう説明し、契約を公正証書で作成することを勧めた。内容を明確に残しておけば、後から疑義が生じにくく、役所や金融機関、大家さんへの説明もしやすくなるという。
千鶴は、託したい事務を一つずつ書き出していった。葬儀は簡素な形で行い、遺骨は永代供養墓に納めること。入院費や施設費の精算。アパートの賃貸借契約の解約と明渡し、遺品の整理と処分。電気・ガス・水道などの解約。健康保険や年金に関する届出。千鶴は、飼っていた小鳥の引き取り先まで、細かく書き添えた。
「費用の問題もあります」と司法書士は続けた。「葬儀代や遺品整理の費用は、亡くなった後に預貯金が凍結されると、すぐには引き出せません。そこで、あらかじめ必要な費用を預託金として預けておき、受任者の固有財産とは区別して管理するのが一般的です。報酬の額も、契約書に明記しておきます」。千鶴は、費用の見積もりを出してもらい、無理のない範囲で預託金を準備した。
司法書士は、この契約だけでは十分ではないとも指摘した。「死後事務委任契約は、亡くなった後の事務を託すものですが、財産の行き先は決められません。そこで、遺言書をあわせて作成し、残った財産の行き先と、遺言を実現する遺言執行者を定めておきましょう」。千鶴は、残った財産の一部を、長年勤めた学校の奨学基金に寄付する内容の遺言を作成した。
さらに司法書士は、将来、判断能力が衰えた場合に備えて、任意後見契約を結ぶことも提案した。「判断能力が低下したときの財産管理や、施設入所の手続きは、任意後見人に任せられます。ただし、任意後見も本人が亡くなれば終了します。亡くなった後の事務は、死後事務委任契約が受け持つことになります」。千鶴は、見守り、任意後見、死後事務、遺言という流れを、一つずつ組み合わせていくことにした。
契約書に署名を終えた日、千鶴は、帰り道の空を見上げて、久しぶりに肩の力が抜けるのを感じた。身寄りがなくても、早めに備えておけば、自分の最期を自分で整えられる。複数の契約と遺言を組み合わせて運用することの大切さを、千鶴は身をもって理解した。
数年後、千鶴は自宅で静かに息を引き取った。司法書士は契約にしたがって、葬儀と納骨を滞りなく済ませ、アパートの明渡しや公共料金の精算、遺品の整理を進め、遺言の内容も実行した。大家は、「事前に取り決めがあったおかげで、安心して部屋をお返しいただけました」と話した。千鶴が遺した寄付金は、学校の奨学基金に届けられ、卒業生たちの進学を支えている。
学びのボックス
| 死後事務委任契約とは | 亡くなった後の葬儀・納骨、賃貸借契約の解約と明渡し、遺品整理、公共料金の精算、各種届出などを、生前のうちに第三者へ託しておく契約。 |
| 本人の死亡後も続く特約 | 委任契約は本人の死亡で終了するのが原則のため、死亡後も契約が続く旨の特約を結んでおく。公正証書で作成しておくと内容を示しやすい。 |
| 費用と報酬の備え | 亡くなった後は預貯金が凍結されるため、葬儀や遺品整理の費用は預託金として預け、受任者の固有財産と区別して管理する。報酬額も契約書に明記する。 |
| 遺言書との組み合わせ | 死後事務委任契約では財産の行き先を決められないため、遺言書で財産の承継先と遺言執行者を定めておく。 |
| 任意後見契約との組み合わせ | 判断能力が低下したときの財産管理や施設入所は任意後見で備え、亡くなった後の事務は死後事務委任契約が受け持つ。任意後見は本人の死亡で終了する。 |
